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29、ふたりのバトン
夕暮れの町に、貴樹と俊介の影が並んで歩く。
俊介は、玲香からスマホに送ってもらった写真を眺めてニヤついていた。
「孝介の前で、その写真見るなよ。そんな顔してたら、間違いなく、しつこく聞かれるぞ」
だが、貴樹の忠告など、耳に入っていないらしい。
「初キスが三歳だったなんてなあ。しかも、タカちゃんからだったとは。今日は嬉しくて眠れそうにないな」
「待て待て。お前、母さんの話、聞いてただろ。最初にしてきたのは俊介の方だからな」
「でも、唇にしてきたのは、タカちゃんだろ」
「それは、頰っぺたに返そうと思ったら、俊介が俺の方を向いたからだろ」
「記憶がないのに、どうしてそう言い切れるんだよ。最初から、俺の唇、狙ってたんじゃないのか」
「バカ言うな。記憶がなくたって、そうに決まってるだろ。お前、キス魔なんだから」
「言いがかりだよ。俺がキス魔になるのは、タカちゃんにだけだよ」
「自分で認めるな」
突っ込みを入れながらも、顔が綻ぶ。
ずっと悩み続けてきた答えは、最初からそこにあったのだ。
玲香が言うように、事実は勝手に想像したその先にあって、悲観的になる必要のないことだってある。もう振り回されるのは止そう。誰にも、自分にも。
少しだけ強くなった気持ちが、貴樹の心を解放してくれる。
「タカちゃん……」
入選の賞状が入った筒を持つ手に、俊介が、指を絡めてきた。
「なあ、したい……」
「何言ってんの。こんな所で、人に見られたらどうするんだよ」
俊介は、辺りを見回した。
大通りを曲がった小道には明かりの灯った住宅が並び、時折、家人たちの声が聞こえてくる。
「大丈夫だよ。誰も来ないって」
「ダメダメ。お前、そんなことしたら直ぐデカくなるだろ」
「我慢する」
「できないから言ってるんだよ。それに、俺のこと大事にするって言ってなかったか。勢いに任せるみたいなことはしたくないって」
「あれは、その先の話でさ。さすがに俺だって、道の真ん中でそんなこと考えてないよ。俺は、キスしたいって言っただけで……」
「はいはい、却下」
「つれないなあ……」
残念そうにそう言って、俊介は絡ませた指を解き、貴樹の肩に腕を回した。
「これなら人前でも良いよな」
「ついこの間までは、近づいても来なかったくせに」
「だから、あれは我慢し過ぎたからこその反応だって。いつでも触れられるって思ったら、もう全然平気。万一デカくなっても、タカちゃんも一緒にデカくしてくれるし。両想い、万歳だな」
「俺までサカってるみたいな言い方やめろよ」
俊介の胸を肩で小突くが、彼は逞しい体でそれを受け止め、肩にまわした手で更に貴樹を引き寄せる。
「タカちゃん、進路決めた?」
「まだ。学科だって具体的に考えたことないんだよね」
「写真は? プロを目指したりするの?」
「まさか。そんなこと、全然考えたことないよ」
「そうか。まあ、タカちゃんの成績ならどこでも入れるから、焦ることないのかもな。でもさ、写真は続けてよ。趣味でも良いから、撮り続けて欲しいな。俺は、タカちゃんが見ているものをもっと見てみたい。あの物置の中の写真見た時、胸がドキドキしてさ、急に気持ちが伝わってきたっていうか。タカちゃんにテスト用だって言われても、タカちゃん、実は俺のこと好きなんじゃないかって、心の奥で希望が湧いてきたみたいなところがあったんだよね」
「それは、被写体が俊介自身だったからじゃないの?」
「そうかな。でも、タカちゃんの写真、気持ちがストレートに伝わってくる気がするんだよな。学園祭の時の写真は、あんまり気合入ってなかっただろ。そういうの、素人の俺でも感じるよ」
俊介に言い当てられて、ぐうの音も出ない。
「他にないの、撮ってみたいものとかさ?」
俊介に聞かれて、貴樹はふと考える。
撮ってみたいカットはあった。
ゴールの先で待っている貴樹に真っ直ぐ向かってくる俊介の獲物を狙う目。
その目に体じゅう、がんじ絡めにされたいと願った。
でも、物置の中でキスを迫ってきた時の彼の目は違った。
確かに貴樹を求めてくれているのに、欲情だけではない、誠実で優しい目をしていた。あれが本来の俊介の素顔なのだ。獣のような俊介は、それこそ貴樹の妄想でしかなく、ゴールに向かう俊介を狙ったところで撮れるものではないだろう。
それに、俊介はとっくに自分を求めていてくれる。温かい肌を寄せてくれるのだから、写真より実物の方が良いに決まっている。
だが、そんなこと、面と向かって言えるはずはなかった。
「うーん、今は特にないかな」
さり気なく言ったつもりだったが、俊介は、急に肩にまわした腕に力を込めてハグしてきた。
「おい。何だよ。こんな所じゃダメだって……」
「タカちゃん、俺だけを撮ってたって本当だったんだな。俺以外、他に撮りたいものがないなんて、嬉しくて、俺、どうにかなりそうだ」
俊介の解説で、ボケツを掘ったことに気づく。
「いや、今すぐには思いつかないって言っただけで……。っていうか、嬉しくてもどうにかするなよ」
「タカちゃん、俺にベタ惚れだな」
「お、お前が言うな。もう、離せよ。人が来たらどうする」
俊介の体を力いっぱい押し返すと、彼は、貴樹が握っていた賞状の筒を掴んで走り出した。
「俊介ッ?」
「行くよッ、タカちゃんッ!」
貴樹も、俊介に続いて走った。
「どこに行くんだよッ」
「タカちゃん家の物置ッ」
「どうしてッ」
「やっぱり、したいッ」
俊介の声が、日暮れの町に響く。
「バカッ。お前、声、デカいよッ」
「早く来いよッ」
俊介は、筒を持つ手を後ろに伸ばした。それは、中学のリレーで貴樹を待っている時の俊介の姿だった。第三走者の貴樹が渡すはずのバトンを、今は、俊介が手にして待っていてくれる。
今度こそ、そのバトンを確実に掴もう。
そして掴んだら、絶対に離さないんだ。
俊介の背中を目指して、貴樹は力の限り地面を蹴った。
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