1、ターゲット

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1、ターゲット

 春の嵐が、グラウンドの周囲に植えられた常緑樹の枝を弓なりに揺らす。  近くの河川敷から巻き上げられてきた砂埃が、太い幹の間をぬって、陸上トラックにまで吹き込んできた。素足を打ち付ける細かな砂の粒に、女子は痛そうに飛び跳ね、クラウチングスタートの姿勢をとっていた男子はぎゅっと目を瞑って顔を背ける。  春休み最終日のグラウンドは、トラック競技の陸上部員たちで占められていた。  八本あるレーンの内側を長距離用に、一レーン空けて三本を短距離用に、外側の二本を四百メートルのハードル用に分け、全種目が効率よくトレーニングできるように配慮されている。決して強豪校とは言えないが、私立高校ならではの充実した設備が部員たちのモチベーションを高めていた。  新堂貴樹は、常設されている応援スタンドの最上階で、デジタルカメラに望遠レンズを装着した。  ターゲットがハードル用レーンのスタート位置についている。他の部員たちより頭一つ高い背丈とスラリと伸びた長い手足のシルエットは、肉眼でも見つけ出すことができた。  スターティングブロックの位置を合わせ、一度立ち上がって、両手両脚の筋肉をほぐすように振りながら肩の力を抜く。適度に筋肉がついた大腿四頭筋とハムストリングを軽く叩き、足首を回して、最後に首を前後左右に傾けるのが、走る前のルーティンだ。  一連の動作を終えてブロックに足をかけたターゲットに、貴樹は、最大に伸ばした望遠レンズのピントを合わせた。レンズの中で、被写体が赤茶色のタータントラックに手をつき、前方のハードルを見据えている。  コーチの笛の合図で、ターゲットがブロックを蹴った。スタートダッシュのまま最初のハードルを越える。トラックを力強く踏み切る抜き脚と、ハードルの上で真っ直ぐに伸びるリード脚。被写体までの距離が遠すぎて望遠レンズでも映し出せないが、張り詰めた筋肉の質感は容易にイメージできる。  地面を蹴るハードル特有のリズムに合わせて、貴樹はターゲットを捕捉し続けた。  コーナーを回り、スタンドとは反対側のバックストレートに入っても、そのリズムは耳の奥で鳴り続ける。タッ、タッ、タッという小気味良いスタッカート三つと、ターンッと伸びるフェルマータ一つ。四つのリズムが一定のテンポで繰り返されることが調子の良い証なのだと、ハードル経験のない貴樹は自分なりに解釈していた。  このリズムに慣れているせいか、被写体がフレームから外れることはない。  貴樹のターゲットは最終コーナーを回り、失速することなくフィニッシュラインを切った。  その雄姿が百枚以上のデジタルデータに収められる。画像を再生すると、連写の合間の数秒間を除けばスタートからフィニッシュまで完璧にフォローできていて、一コマずつ再生するとパラパラ漫画のように動く。  悪くない。  悪くはないが、物足りない。  本当に撮りたいカットはこのアングルではないのだと、貴樹の心と体が悶える。  ターゲットに気づかれない距離で、しかもかなりの俯瞰となるこのポジションからでは迫力のある画は望めない。張り詰めた筋肉の躍動感も、心臓が壊れそうな激しい息遣いも画像に残ることはなく、本来の力強さや美しさは、すべて貴樹の頭の中のスクリーンに映し出されるだけだった。  願わくは、一度でいいから撮ってみたいカットが、貴樹にはあった。  フィニッシュラインの正面から、トラックの直線部分を真っ直ぐに走ってくるターゲットを狙ったカット。コンマ一秒でもタイムを縮めようと、フィニッシュラインに向かって野心むき出しで加速してくる表情だ。  その目は、獲物を狩る肉食動物のようにギラついているのではないか。空腹の獣が獲物を見つけた時のように、涎を垂らし、爪を立てて地面を蹴り、なりふり構わず向かってくるのではないか。いつもは穏やかで優しい眼差しが、レンズの中で豹変するとしたら……。  貴樹の腕前では、そんな写真を撮ることはできないかもしれない。それならファインダーから覗くだけでもいい。  その瞬間だけは、ターゲットが逆転するのだ。  いつも追うだけの自分が、追われる側になる。たとえ傷つけられても、捕食のためのターゲットだとしても構わない。捕まる瞬間、ファインダーを介して自分の瞳いっぱいにターゲットが映ったら、この体と心は興奮と歓喜で粉々に破裂してしまうのではないか。  そんなことを想像するだけでアドレナリンが吹き出し、体の芯がズキズキと疼き始める。  だが、それが叶うはずのない妄想だと理解もしていた。  フィールドに下りてフィニッシュラインの正面に立ったところで、ターゲットの獲物が貴樹であるはずがない。爽やかな笑顔を向けられることはあっても、欲望を剥き出しに求められることはない。  それが解っているからこそ、良い画を期待できないポジションだと知っていても、ターゲットに見つからない場所で、ただひたすらレンズを向け続ける。  それも、卒業までの約一年だろう。  ターゲットを追うことができる期限は近づいていた。
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