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5、嫌な予感
翌日、ホームルームが終わると、貴樹は早々と学校を抜け出した。
部活オリエンテーション用の写真は、既にプリントアウトし、パネルに貼って部室に置いてある。これなら、山岸との約束を果たしたことになり、更に適当に撮ったバスケ部と陸上部の写真について、玲香と問答することも避けられるだろう。今は、余計なことに関わっている場合ではなかった。
高校の最寄駅から三駅郊外に向かった住宅地に、カメラマンの事務所はあった。
箱型で窓一つない漆黒の外観は周囲の家並みから浮いていて、大きなシャッターの前にはワンボックスカーが二台停まっている。
事前にネットで調べたところ、名刺の住所はカメラマンの事務所兼撮影スタジオとして登録されていて、そのサイトに彼の簡単な紹介も記載されていた。
――大学在学中に旅をしながら世界各国に暮らす人々の写真を撮り、初の写真集を出版。その写真集が国際的な評価を得て、本格的にカメラマンデビュー。自ら写真スタジオを運営し、商業写真の他、舞台・イベントなどの撮影を精力的に行う――
如何にも才能溢れるカメラマンであることをアピールするプロフィールと顔写真の下に、玲香と同じ出身大学と生まれ年が記されている。玲香の知り合いだというだけで厄介な人物像が浮かぶうえに、いかめしいプロフィールに気後れするが、俊介の写真を返してもらうには会いに行くしかない。
玄関のチャイムを押してインターホンで名乗ると、すぐにドアが開けられた。
「やあ、本当に来てくれるなんて驚いたな」
カメラマンの殿村亮太は、貴樹を見るなり顔を綻ばせた。気さくな雰囲気に、重かった気分が少しだけ軽くなる。
「悪いね。わざわざ来てもらって」
スタジオの隅にセッティングされているサーバーからコーヒーをカップに注ぎ、殿村は恐縮した様子で貴樹に渡した。
「これから撮影なんだ。この通り、準備があって空けられないもんだから」
撮影の背景となる真っ白なホリゾントに青い照明がグラデーションにあてられ、その前をラフな格好をしたスタッフたちが動き回っている。彼らの間に、「それ、ワラッて」「もっと、カミだな」「そこは、ハレるぞ」など、専門用語らしき言葉が飛び交うのを見て、やはり自分には場違いなのだと、貴樹はあらためて意思を固めた。
「すみま……」
バイトを断るための謝罪の言葉を口にしかけるが、殿村に先を越される。
「今日は、企業の商品PR用の撮影でね。クライアントも来るから、あまり時間がないんだよ。明日なら夕方から空いてるから、ゆっくり話もできたんだけど」
嫌な流れだと、貴樹は思った。
母が無理やりスケジュールを捻じ込んだのだろう。断るつもりで来たのに、こちらの都合を優先させたことになっている。もしかして、バイトの話自体、母が一方的に進めたことではないだろうか。
貴樹は、あらかじめ準備してきた断る理由を少しだけアレンジした。
「すみませんでした、お忙しい時に。それに、専門的な知識が必要なバイトだと知らずに、母がお願いしたようで。僕みたいな素人では務まらないなら……」
「ああ、いいのいいの。結婚式の撮影には、専門知識なんていらないから。うちのアシスタントがカメラマンとして入ってくれてるんだけど、もう少し人手が欲しくてね。デジタルで撮って欲しいんだけど、カメラは持ってるかな。なければ僕のカメラを貸してもいいんだけど、使い慣れてる奴の方が良いでしょ」
撮影の時間が迫っているらしく、殿村は時計を見て話のスピードを上げた。
貴樹もそのスピードに乗せられてしまう。
「一眼ならあります」
「充分。レンズは?」
「標準と二百ミリです」
「良いねえ。脚は?」
「三脚と一脚です」
「OK。あと、スーツはあるかな」
「スーツ、ですか……」
「無いよな、高校生じゃ。うん、解った。それは気にしなくて良いよ」
殿村は、オフィスと書かれた部屋のドアを開けて、中にいるスタッフに何やら話をした。
「あとは、彼女と話してくれるかな。詳細は、僕の方から連絡するから」
それだけ言うと、撮影用の商品がスタンバイされているライトの下に向かう。
「あ……」と口を開けたままの貴樹は、その場に置き去りになった。
もしかして、もうやることになっている? いるよな、今の流れじゃ。スケジュールも聞いてないし、結婚式の何を撮るのか具体的に知らされてない。そもそも、結婚式の撮影だなど初めて聞いた。第一、俊介の写真の話も切り出せていない。
貴樹の不安が伝わったのかどうか、歩きかけた殿村が、「そうだ、あの写真……」と、振り向いた。
「あれ、コンテストに出してみなよ。被写体に許可取っておいて。その話もまた今度しよう」
「は、はい……」
言えなかった。
写真を返して欲しいという最大の用件のみならず、誰にも見せるつもりのない写真であることも説明できず、その場の空気に流されてしまった。
殿村の関心は、既にホリゾントの前にディスプレイされた商品に移っている。代わりに、「こちらにどうぞ」と、事務員らしき女性が貴樹を案内した。
彼女に聞かれるまま、手持ちのカメラのメーカーや型番、貴樹の連絡先、服のサイズなどを答えながら、あまりにヘタレな自分に落胆していた。
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