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二十五の時、図書館でふと見つけて読んだ「ニコーコマス倫理学」の記述を思い出していた。アリストテレスだ。
第一巻の序説——「あらゆる人間活動は何らかの『善(アガトン)』を追求している。」こんなこと。「あらゆる芸術、あらゆる希求、そしてあらゆる行動と探索は、何らかの善を目指していると考えられる。それ故に、ものごとが目指しているものから、善なるものを正しく規定することができる」。
高橋は、この記述に自分のことが含まれていないような気がしてならなかった。
含まれてはならないとも思っていた。
いつも成功者や、いるはずの大衆の陰に隠れて、甘い蜜を啜って生きてきた。
自分のような生き方をしている人間が少ないことはわかっているのだが、自分の生き方しか知らないから、愚直にそれを突き詰めるだけだ。新しい生き方、なんて、そんな怖いこと、出来ない。きっと傷つくだけだから。
一人寂しく、細々と頼りなく生活する彼に、新しい生き方を模索することは難儀を極める。九九の最後の方を覚えているか怪しいうえ、電卓なしでは答えが三桁以上になる計算は厳しい。
それでも今まで、自分なりに生きてきた。
決して誇ることの出来る人生ではないが、身内に迷惑をかけたりはしなかった。
十五のとき、中学を卒業してすぐ、両親から半ば追い出される形で自立した。
もともと望まれた子ではないことを理解していたし、父親から学んだ稼ぎのプロセスがあればなんとかなった。
若い頃の高橋は大変な苦労をしたのだが、彼自身懐古することに全く精神的恩恵を感じない性分のため、すっかり無かったことになっている。
思い出すとしても精々一年前くらいのもので、これには彼の性格以外にも、呆れる程乏しい記憶力も関係している。
そのせいで学校に通うのはつらかった。メモしておかないと、自身が興味のないことを全く記憶することが出来ない。クラスメイトの名前が覚えられない。誰一人。宿題の内容も覚えていられないし、連絡帳を見れば宿題が何かわかることさえ、覚えたのは小学校を卒業する間際だった。
そんな高橋が今まで一人で生きていくことが出来たのは、父親がくれた小型のノートパソコンのおかげだ。父親は、「学校はもう十分だろう」と言いながら、息子が貰ったばかりの卒業証書の裏に、さらさらと文字を書いた。そこにはとあるアパートの住所が書かれていた。
家を出た時、高橋は中学校の制服を着て、いつだったか家庭科の授業で手作りしたナップザックにパソコンと少しの食糧を詰め、父親がこぼしたビールの染みがついた卒業証書を握りしめていた。
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