Prologue

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Prologue

「今度、原稿を書いてもらうことになった沓掛さんだ。担当の代わりに行ってもらう機会もあるかもしれないからな」 そう言う編集長の横に立っていた女性は、やはり知っている名前だった。 会場に入ってきたときから、あれっと思っていた。 でも、まさかな、とも思った。 彼女を最後に見たのは、7年も前だから。 落ち着いた薄いブルーのスーツを纏った彼女は、俺を正面から見てこう言った。 「初めまして。よろしくお願いします」 立食の宴会会場は盛り上がりを過ぎ、料理も大分減ってきていた。 食べる人より、数人で輪になって談笑している人たちばかりだ。 新年会と言うことで、30人余のうち、3分の2は身内なので、会場は和やかな空気が漂っている。 彼女が席を立ったのを見て、数分置いてからさりげなく後を追う。 会場を出て右に歩けば、ソファがいくつか置いてある休憩スペース、左ならトイレだ。 休憩スペースからは、煙草を吸う男たちの声が聞こえる。 それで左の廊下を歩いて行った。 鍵の手に左に曲がり、手前に男性用、奥側に女性用に続く廊下が伸びている。 男性の入り口を通り過ぎていくと、突当りの前で、小さめのバッグを手に出てきた彼女を捕まえた。 手を引いて廊下を横切り、左側の通路に入る。 通路の奥は『Staff only』と表示の付いたドアがあるだけ。 彼女の身体を壁際に追い込み、その前に立つ。 一瞬、何を言おうか、彼女の目を見ながら考えた。 あの頃は、長い髪が背中まであった。 そしていつもジーンズだった。 今、目の前にいるのは、肩のあたりまでの髪に、綺麗に化粧を施した目元が印象的な大人の女性だ。 でも、握った手の中にある彼女の手の感触までは変わっていない。 「なぜ、初めまして、と?」 彼女は俺を見返して言った。 「社会人になってからは、初めて会ったでしょう?」 こうなることを予想していたような落ち着き方だ。 ふたりで過ごしていた時間の記憶が、頭の中を駆け上がってくる。 甘い、恋人同士の時間…。 なぜ、別れたのか思い出せない。 付き合っていた期間が短かったからだろうか。 彼女の左手を、目の高さまで持ち上げる。 「どうして俺は、この手を離したんだろう」 彼女の手には指輪がない。 手首に細い二連のチェーンと腕時計があるだけ。 俺は薬指に指輪がある自分の左手を、ズボンのポケットに入れた。 「どうして、こんなに綺麗になって俺の前に現れた?」 見つめ返す彼女の眼は、なぜか憐れむような哀しい色をしている。 彼女の手を放し、やり場のない思いを拳にして壁にぶつけた。 彼女の眼の色を消したくて、その顎を持ち上げて唇をふさいだ。 されるがままの彼女の唇を、思いのままに味わう。 ポケットに入れていた手を、彼女の背中に回して腰を抱いた。 あの頃の想いが蘇る。こうして何度唇を合わせただろう。 …それでも、いつ人が来るか分からない。 俺は彼女から離れると、その落ち着いた顔を見つめ、何か言ってやろうとした。 でも、なんて言えばいいのか、浮かんで来なかった。 ふと彼女に背を向けると、会場へと戻って行った。 彼女はそれきり、戻ってこなかった。
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