私は陸で暮らしたい

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私は陸で暮らしたい

余りにも美しすぎるから。理不尽な理由で私は神によって半身を魚に変えられた。人間達が恋に溺れ、働くことすら忘れてしまうから。 海の中に沈み、魚達しか友達がいない。 時折、波間から顔を出して、昔住んでいた港町を懐かしんで眺める。 漁に出てきた男達が船から身を乗り出して、私のあらわになっている胸元に無遠慮な視線を送ってくる。そんなときは尾ひれを見せて泳いで見せる。 「チッ、半魚人の化け物か」 「生け捕りにしてヤってやろうにもあれじゃ生臭い魚とヤってるようなもんだしな」 下卑た笑いを浮かべていた男達は、落胆して漁へと戻っていく。 別に悲しんだりはしない。船乗り達に侮蔑されることにはもう慣れてしまった。 ただひとつ心残りがあるとするならば…。 人間だった頃の私は男に求愛されることに飽き飽きしていた。あらゆる言葉、贈り物、仕草で私を求めてくる男達。でも、彼らが見ているのは、私の姿形だけだった。 私が発する言葉の中身よりも、私の愛らしい仕草を目に焼き付けようとする。そんな外側しか見てくれない男達に辟易としていた。 しかし、彼だけは違っていた。女だてらに、独学で書物を読み、詩を書き、哲学を学ぼうとする私を、学問の仲間の輪に入れてくれた。 女が男と同じように学ぶことは、生意気で男を蔑ろにするけしからんことだと、港町の男達は思っている。しかし、首都から地理の調査に来ていた、権威ある役人である彼は、先進的な考えの持ち主だった。 「これからは女性も学問を修めるべきだ。何も遠慮することはない」 片田舎の港町にいる保守的な秀才達は、首都から来たお役人の彼の鶴の一声で黙ってしまう。権威に彼らは弱い。彼の機嫌を損ねたら出世の道から外れるかもしれない。裏を返せば、彼の機嫌を取っておけば立身出世の足掛かりになるかもしれない。 そういった町の男達の打算の元で、私は首都から来たお役人と町の秀才達と共に学問に励んだ。 しかし、私が努力すればするほど、男達に遅れを取らないように必死で学べば学ぶほど、町の人達の風当たりは強くなった。 「ケッ!所詮売女の娘じゃねえか」 「父親知らずの野良猫の癖に偉そうに」 「黙って男に抱かれてりゃ可愛いのによ」 町のあちこちから、私への陰口が聞こえてくる。 負けるものか。負けてなるものか。男が褒めそやす姿形は生まれつき神から与えられたもの。学問は自分の力で身につけた、私自身が必死で生きてきた証に他ならない。手放すものか。誰に何と言われようと、私は決して学ぶことを諦めたりはしない。 今日も死んだ母親が残した酷く粗末な家で、蝋燭の灯りで書物を読み、綴り方をする。何人もの男が、豪華な家を与えようと言ってくれた。 しかし、私はその申し出だけは頑なに拒み続けている。家に入りきれないドレス、宝石、靴、家具などの装飾品を置く倉庫代わりの家は貰っても、私が寝起きして、食事を作り生活する場所はこの母が残した家以外にない。 いつか学問で男と対等に渡り合い、自分の知力を使って働いて、その稼いだお金で家を買うのだ。貧しい暮らしの中で懸命に私を育て、男に媚を売り、春を捧げ、自尊心すら捨てて呆気なく病死した母を弔うために、大きな家を建てて、母の部屋も作るつもりだ。 そんな夢を心に抱きながら、私は眠い目を擦りながら、文法の綴り方の練習を続ける。すると突然、粗末な木戸の鍵が壊され、学び舎で競い合っている町の秀才達が押し入ってきた。 あっと、声を上げる暇もなく両手両足を千切れんばかりに引っ張られ、助けを求められないように口に轡を噛まされ、無言のまま男達は代わる代わる私の自尊心を、向上心を、夢を犯していく。 身体に感じる痛みよりも、共に切磋琢磨していた仲間に裏切られた屈辱に打ちのめされる。悪口や陰口を言いながらも存在と努力を認めてくれていたと、私は大きな勘違いをしていたのだ。 無言のまま続く蹂躙に対して、私は一粒たりとも涙を見せなかった。 泣くものか、泣くものか。所詮私は売女の娘。その身体に心はない。姿形は脱け殻に過ぎぬ。心を海に沈めて、嵐が過ぎ去るのを待てば、いづれ荒波は凪へと変わる。そして、首都から来たインテリのお役人の彼は、こんなに汚された私でも、きっと学友として受け入れてくれる。 女として、汚される前に彼に一度でいいから抱かれたかった…。地理の調査が終われば彼は首都へ報告に帰る。たった一度でもいい。私の言の葉の中身を誉めてくれた彼になら、綺麗だよと姿形を褒められても心から愛おしいと思える。それなのに、もうその願いは叶わない。 泣くものかと唇を引き結ぼうとしても、轡がそれを許さない。もう少しで涙が零れてしまいそうになる。涙を堪えて轡を噛みしめる。 無言で続いていた町の秀才達による陵辱は、最悪の幕引きを迎えた。粗末な私の家の木戸がぎぎっと年季の入った音を立ててまた開いた。そこで蝋燭の灯りに照らされて、薄ら笑いをしているのは、私が密かに恋い焦がれた彼だった。 「轡を外すか。売女に学問を教えたら更に高値で売れるようになる。首都の貴族達は港町にいる謎めいたインテ娼婦を必死で競り落とすだろうよ。ありったけの金貨を積み上げてな」 彼と町の秀才達の嘲笑が私の心の拠り所のボロ家に響き渡る。ああ、ずっと騙されていたのか。舌を噛み切って死にたくても、頬が痛くなるほど噛ませられた轡に阻まれている。 瞼を閉じてうなだれていると、首都から来た彼が私の口を塞いでいた轡を外して冷たく言い放つ。 「俺に惚れてるんだろ?売女の癖に身の程知らずな。詩の一つも詠んでみたらどうだ?」 私はかっと目を見開いて彼を睨み付けて、 「何か一つ叶うなら、願いがあるの、おお神よ。海を泳ぐ魚へと私を変えて、地獄から救い出して自由へと。歩き疲れた足跡も、学び続けた綴りさえ、全て消し去り泡となれ」 息も絶え絶えに詩を詠む私を、満足そうに眺めると彼は、娼館の主のように私の身体の隅々まで眺め回してから、轡でずっと塞がれていた唇をこじ開けて、醜い物を押し込みながら、息を弾ませながら腰を振る。 「ブラボー!流石私が仕込んだだけはある。これは、ただの娼婦じゃない。貴族どころか王宮に仕えられる上玉になりそうだ」 舌の上、顎の下、頬の内側の柔らかい肉を抉るそれを噛みちぎってしまいたい。人を騙して、どうにもならない生まれ育ちを馬鹿にして、売り飛ばそうとする、極悪非道な憎んでも憎みきれない最低な男。 でも、どうしても私にはそれが出来なかった。彼もきっとそのことに気がついている。轡を外された私が手負いの野獣となって噛みついてきて、一瞬腰を引くことが遅れれば、男の象徴を失う。彼は確信を持っているのだ。私が決して噛みちぎったりはしないと。 視覚、嗅覚、聴覚、触覚。全ての感覚を遮断して、私は彼が教えてくれた異国の言葉の文法や、先人達が残した美しい詩の一節や、天文学、哲学を思い起こす。真剣に議論を交わした日、詩を書いた手紙を送り合った日々、ときどき仲間達に知られないように交わした目配せ。 彼が私に与えてくれたものの方が大きい。保守的な片田舎で女だてらに学問をする風変わりな娼婦の娘を、彼は才女へと育ててくれた。最初から首都で高級娼婦として売り飛ばすつもりだったとしても、それでも構わない。 こんなにも醜い心根の男を、私は心から愛している。町の秀才達に汚されずに済んだ唇を、私は懸命に彼の欲望のそれへと這わせて、発情期のけだもののように舌で包むように甘い花の蜜を求めるように舐め尽くす。 「犯されても喜ぶなんて売女になるために生まれてきたような女だ。幾らお勉強しても、育ちまでは変えられないしな」 今まで堪えていた涙が、さざ波のように溢れ出した。私の泣き顔と泣き声が彼の興奮を高めたようで、彼は飛び魚のように腰を震わせて果てた。心から愛している男なのに、愛されない。ただの商品の仕上がりの検品をするように、私が最後まで媚びてくるか粘り気のある視線で確かめてくる。 ええ、演じましょう。私はどうせ売女の娘。蛙の子は所詮蛙さ。一夜の夢を売るだけの儚い者。もう一度あの娼婦を抱きたい。惜しい女を手放した。そう思わせて見せましょう。 彼の勢いを失ったそれから放たれる白い花の蜜を、最後の最後まで蝶のように吸い取ると、私は独りで譫言を呟いていた。 「おお、神よ。もう歩きたくもないわ。私の足跡を消して。深い深い海の中を自由に泳ぎ回れる魚に私を変えてください」 ボロ家の天井の板が音もなく空に舞い上がり、うす緑色の光が夜空から降り注ぐ。そして、床に両手両足をついて、野山を駆け回る野獣のように裸でうちひしがれていた私をその光が包み、首都から来た彼も、町の秀才達も触れない圧力を発しながら、私を海まで運んでくれた。 その姿なき光から声がした。 「汝の願い叶えようぞ。美し過ぎる者は人を惑わす。人魚となって生きて自由に海原をたゆたうがいい」 それから、私は海をさ迷う人魚となった。あれほど酷い仕打ちを受けたのに、首都から来たお役人の彼が昔住んでいた港町に来ていないか、胸が締め付けられるほど恋しいときがある。 足が無くなった私は、鱗だらけの尾ひれのまま、あの港町の浜辺にときどき近づくの。そして、鱗をすり減らし、血を流しながら砂浜を這うのよ。浜辺を「歩く」のよ。 いつか、彼が改心してこの浜に迎えに来てくれる日が来る…。叶うはずもない儚い夢を見て、夜中の浜辺に虹色の鱗の足跡を残して。 私が陸へ陸へと近づき過ぎると、親友のイルカや飛び魚、エイ達が迎えに来るの。 「ダメだよ、人魚姫。僕たちのお姫様なんだから、死んじゃダメだ」 海が、波が、打ち上げられた私をまるで意思を持ったようにうねり、私を海へと戻してくれる。傷だらけの尾ひれや背びれから、チリチリと、赤い血潮が流れ落ちる。 いつか、この恋を忘れられるのでしょうか? いつか、陸でもう一度暮らしたいとう願いも消えるのでしょうか? いつか、知力を持って働いて稼いで、大きな家を建てて娼婦としてしか生きられなかった母の魂を弔うという夢も忘れられるのでしょうか? (終)
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