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高原夏希
俺の名前は高原夏希。
生まれたのは、ロンドン。
リトルベニスと呼ばれる運河の近くで、時間の流れがゆっくりと感じられる穏やかな景観の街だった。
父はたいそうな金持ちの日本人で、そのせいで仕事に追われて忙しいのか…めったに会う事はなかった。
母はイギリス人で、とても美しい女性。
ブロンドの髪の毛にブルーの瞳、きれいな声の持ち主で、近くの高級ホテルのバーで、シンガーとして働いていた。
俺が学校から帰ると、母はいつも発声練習をしていた。
それを間近で聴いていたせいか、俺もいつしか歌う事が日常になっていた。
母と二人きり。
金に困ってはいなかったが、たまにしか帰って来ない父に不満はあった。
夜中に目を覚ますと、母が泣いている事が多かったからだ。
なぜ母を一人にするのだろう。
なぜもっとそばにいてやれないのだろうか。
こんな事なら、金は要らないから、もっと家に帰れる仕事をしてくれと言ってみようか。
本気でそう悩んでた俺に…三ヶ月ぶりに会った父は言った。
「じゃあ、日本に来ないか?」
日本…
なぜそんな事を言われるのか分からなかった。
俺は英語も日本語も喋れたが、母は英語のみ。
しかも仕事も持っている。
日本に行く気もない。
俺は、もどかしかった。
一人で泣くぐらいなら、環境を変えればいいのに。
勇気さえ持って一歩踏み出せば、何かが変わるはずなのに、と。
その後も母は日本に行く気はないと言い張ったし、俺にも日本の事は考えるなと言った。
だが…俺は日本に興味があった。
教科書に出てきたわずかな情報では物足りず、図書館であれこれと日本の文化を調べたりもした。
知りたいのは当然だ。
俺には、日本人の血が流れてる。
父が生まれ育った国だ。
そんな俺の日本への知識が増え、憧れも増して来た頃…
母が、体調を崩した。
日に日に痩せ細る母。
俺は父に連絡を取ろうとしたが…母がそれを拒んだ。
なぜ。
なぜ、ダメなんだ。
そう問う俺に、母は信じられない事を言った。
「あの人には、家庭があるの。」
…は?
家庭って…
「あの人は、日本に家庭があるのよ。あたしは愛人なの。」
「…嘘だ…」
「本当よ…あたしみたいな愛人が、たくさんいるのよ。高原は、そんな人間よ。だから、頼りにしないで。」
「……」
信じられなかった。
父は無口な男で、たまに帰って来ても大した会話はなかった。
だけど、いつも日本の土産をたくさん持って帰り、勉強も教えてくれた。
それが…
父と思っていた人は、母の夫ではない…?
さすがに、うちひしがれた。
少なからずとも、俺は父を尊敬していたからだ。
それから、俺から父に連絡をする事はなかった。
気が付いたら、父とは二年会わなかった。
だが…
俺が15歳の時。
母が他界した。
まだ36歳だったのに。
途方に暮れた。
近所の人や、母の勤め先の人達は優しくしてくれたが、これからの事を思うと不安で仕方なかった。
そんな時、父がやって来た。
誰かが連絡をしたのだろう。
泣き腫らした目で、俺を見て。
「一緒に日本に帰ろう。」
と言った。
帰ろう?
それは、あんただけだろ。
そう言いたかったが…
他に頼る人もいない。
ちっぽけだった俺は、父親に養ってもらう他なかった。
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