コインランドリー

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 それから何日後かの講義で彼女を見かけた。私服の学生の中のスーツ姿は明らかに浮いていた。 「君もこれ履修してたんだね」  講義終わりに声をかけられた。 「まだ単位とってなかったんですか。しかもこれ必修ですよ?」  マクロ経済学Ⅱというこの授業は、二年生から履修ができるようになる。かくいう自分も三年生になって履修してしまっているのだが、それは別の受けたかった一般教養の講義で時間がかぶってしまっていたからだ。  そして就活をする4年生は、あとはゼミと卒論分の単位を残しているだけの状態が普通だ。 「いやー、友達誰もいなくて困ってたんだ。そっちも見た感じ同級生いなさそうだし、協力しようよ」  斜め後方の席で彼女の授業態度を見ていたが、特に板書をしている様子は見受けられなかった。 「やです」 きっぱりとそういうと。 「ちょちょちょ、ごめんごめん。協力しようは嘘です。助けてくださいでした」  彼女は僕の進行方向へ回り込み、拝むように両手を合わせた。スーツ姿の年上の女性に頭を下げられている。目の前の光景を脳が認識して混乱した。  僕は嘆息して、答えた。 「まあ、ノートぐらいなら見せますけど」  今日はテスト前の最後の講義だった。たぶん彼女もテスト範囲目当てで来たのだろう。しかし、とくにテストの範囲を伝えられることなく講義は終了した。 「解説付きでおなしゃす」  彼女はさらに深く頭を下げた。ぼくはさらに、わかりやすく大きく息を吐いた。そして空を見上げた。今にも落ちてきそうな分厚い雲が覆っている。 「雨が降れば、コインランドリーに来ますか?」 「うん、洗濯物もあるしちょうどいいね」 「じゃあ、だいたいこの前ぐらいの時間にいます」 「ありがと! 100円はめちゃくちゃ利子つけて返すから!」  いや、今日返すんじゃないのか、と心の中だけでツッコミをいれる。 「いまから面接なんだ」 「そうですか、頑張ってください」 「ちょっと、この前より冷たくない?」  そう言われて僕はそっぽを向いた。少しだけゆるんでしてしまう口元を見られたくなかった。 「それじゃ、よろしくね。せんせ」 彼女は大学の最寄り駅の方に早歩きで向かっていった。その後姿はどんどん小さくなっていく。重たい雲を背負った灰色の世界で、彼女の真っ黒の髪とスーツだけが色彩を持っているように感じた。  その夜、コインランドリーに現れた彼女は、メイクから漏れ出るほど疲れた表情をしていた。 「一日に二つもいれるもんじゃないね」  傘をたたみながら入ってくる彼女を、僕は本を閉じながら迎えた。手際よく自宅で洗ったであろう洗濯物を乾燥機に放り込んだ彼女は、筆箱、ルーズリーフ、講義で配布されたレジュメをテーブルに広げた。レジュメの教授の板書をメモするために設けられたスペースは真っ白だった。 「とりあえずテキストの演習問題ですね。というか、それ以外が出たら諦めてください。たぶんみんなできないんで」  どこがでるのだろうという話をしていた後ろの席の後輩たちの会話を思い出す。わざわざ教授本人が書いた教科書買わせといて、でなかったらやばいだろ、と言っていた。確かにそのとおりだ。3千円も出させておいて、テキストの設問もあてにならなければ、大暴動がおこるだろう。この教授は今年からだから、過去問もあてにならない。  範囲も絞られなかったし、教科書の章末の問題を解けるようになるしかない、というのが履修生たちの共通意識だ。 「私テキスト買ってないんだよね~」  能天気な口調で、僕の前に置いてあった「マクロ経済学・応用編」を手に取りぱらぱら広げる。うげっと芋虫でも見たかのような表情をしている。 「ちょ、これ何語?さすがの私も第二外国語はもうとってるんですけど」  ぼやく彼女を横目に僕は読んでいた本を元の場所に戻した。 「まあ、まだ期間はあるんでひたすら反復して解法暗記すればいけると思います」  僕の話なんて聞かずに彼女は最後のページをめくった。 「私さー、こういうあとがき好きなんだよね。周りのみんなに感謝して、なんか人間味あるやつ。こんな難しい無機質な世界の終わりに陽がさしてるみたいじゃん」  意外と詩的な人のようだ。共感してしまった。
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