あなたの尻尾に触らせて

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「ね、覚えてる? 一年生のころの球技大会のこと」  わたしは目の前でちょうどおにぎりを一つ食べ終わった少女に尋ねた。  彼女はぱちりと目を瞬かせて、ちょっと考えた後に口を開く。 「バスケをしたことは覚えてるわよ。君が思った以上にへたくそで教えるのが大変だった」  それは忘れてよ……と言いながら、口元が緩みそうになって慌てて取り繕う。  彼女が覚えているのが嬉しかった。何にも興味がなさそうに見える彼女が、わたしとバスケの練習をしたことを覚えているのが。  わたしは彼女と仲良くなって、彼女が実は大したことは考えていないことだとか、寝てるように見せかけて実は起きていることもあることだとか、何にも興味がないわけではなく好奇心旺盛な部分もあることだとか、色々なことをもう知っているのだけど。それでも時々彼女のことを、手の届かない高嶺の花だと思うことがある。そういう彼女が、わたしと出会った頃のことを覚えているのが嬉しかったのだ。 「今日帰りに喫茶店よっていこうよ。数学教えてほしいの」  今日は予定ないからいいよ、と言って少し笑った彼女に、わたしもにっこりと微笑みを返す。  彼女とこんな風に放課後に一緒に寄り道するような関係になれたのは、わたしのどうしようもない運動神経のおかげだった。  いよいよ球技大会が近づいてきて、それに反比例するようにわたしの気分は下がっていた。  他のグループは休み時間とかも練習してるみたいだったけど、わたしたちのグループは体育の時間に少し練習しただけだった。まあ、最初からやる気がないのだから仕方がない。  夕焼けに染まった放課後の校舎を一人で歩いていた。  美術部の片付けの最中で、手には絵の具で染まった色水の入ったバケツを持っていた。窓越しに差し込んだ西日が眩しかったのを覚えている。  手洗い場に流すと汚くなるからって外の水道まで行って捨てなきゃいけなくて、面倒だなと思いながら階段を下りた。  やっと外の水道に着くと、ちょうど足を洗っていた運動部の女の子が退いたところだった。ザバッと水を流して、少し色の残ったバケツをジャブジャブ洗う。  そうして空になったバケツをぶらぶらさせながら部室に戻る途中で、あの子の姿を見たのだ。  グラウンドの隅、誰にも使われていないバスケットコートで、制服姿のあの子が華麗にシュートを決めるところを、見たのだ。  彼女が動くたびにくるくると長い黒髪がひるがえって、シュートをするたびにスカートがふわりと広がった。ほそくて長い指先が器用にボールを操って、彼女は涼しい顔で踊るように跳んだり回ったりする。  スパッと小気味いい音を立ててスリーポイントシュートが決まったところで、わたしは思わずすごいと声を漏らして拍手をしていた。  驚いたように目を見開いてこちらを見たあの子に、わたしはハッと我に返ってごまかすように笑う。 「さっきの、すごかったわ。バスケ得意なのね」  わたしが素直に称賛すると、彼女はゴール下で転がったボールを拾いながら、運動は得意だから、と答えた。話を聞くとどうやら毎日ここで練習しているというわけではなく、今日は偶然暇だったから遊んでいただけなのだそうだ。  彼女のきんいろの瞳に夕日が映り込んでオレンジ色に染まって見えた。  わたしはこの時、彼女が意外と話をすることに驚いた。もちろん聞いたことに普通に答えてくれるのは分かっていたのだが、それでもうん、とか、そうね、とか、短い単語しか言わないようなイメージがあったのだ。  わたしが勢いづいてしまってあれこれ質問を飛ばしても、彼女は嫌な顔一つせずに全てに答えてくれた。シャンプーは何を使ってるのとか、スキンケアは何をしてるのとか、あの子にとってはどうでもいいようなことまで、全て。 「運動が得意なんて、うらやましいわ。わたしは泳げないし、走るのも遅いし、球技なんて特に苦手だもの」 「私も水泳はできないよ。どうしても水が苦手なの」  わたしがびっくりしてそうなの⁉ と言うと、彼女はすこし眉を下げて頬を緩ませた。ほとんど苦笑いだったけど、これはわたしが初めて見た彼女の笑顔だった。 「私はみんなが思ってるほど完璧じゃないのよ」  意外だった。彼女は高嶺の花だったから。  いつも窓際の席で一人まどろんでいるあの子の横顔を、ひっそりと盗み見るように眺めているのはわたしだけじゃない。  運動もできるし、授業中だって彼女が問題への回答に詰まるところを見たことがない。頭のどこかで、きっとあの子はわたしたちとは違う次元で生きているんだと疑っていなかった。  こんなに、きれいな顔で少し寂しそうに笑う子なのに。話しかけたらちゃんと答えてくれて、苦手なことだってちゃんとあって、そんな普通の女の子なのに。 「ねえ、もしよかったら、わたしにバスケ教えてくれないかな」  球技大会もう来週なのに、練習してなかったでしょ、と言ってニコッと笑ってみる。  せっかく触れたと思った彼女の素顔を逃したくなかった。もっと知りたかったし、話してみたかった。彼女と仲良くなるためなら、苦手なスポーツだってやってみようと思った。  彼女はちょっと驚いたように目を見開いてから、いいけど、と言ってわたしが持ったままだったバケツを指さした。 「それ、ずっと持ってるけど、どこかに行く途中だったんじゃないの」  ああ! と大きな声を出したわたしに、彼女は我慢しきれなかったようにぷっと吹きだした。  笑われて恥ずかしいやら彼女の珍しい顔が見れてうれしいやらで顔がカーッと熱くなる。  忘れてた! 水を捨てに来ただけだったのについ話し込んでしまった。部室で友人たちが待っているかもしれない。いや、確実に待ってる。  またねと言って走り出す。  グラウンドの隅を走って昇降口に急ぐ。履き替えてなかったスリッパがパタパタと音を立てた。  昇降口に入る直前、振り返ると、あの子はまだバスケットボールを抱えてこちらを見ていた。立ち止まって、大きく手を振る。 「教えてくれるって、約束だからね!」  あの子の右手がひら、と小さく揺れるのが見えた。
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