あなたの尻尾に触らせて

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 感じの良いジャズ調のBGMに穏やかな喧騒が混ざる。空席が目立つのはお店としてはダメなのかもしれないけど、うるさすぎも静かすぎもしない店内は勉強するのにちょうどいい。  わたしはシャーペンを動かしながら、向かいに座るあの子の顔をちらりと盗み見た。  いつの間にか手が止まっていたらしく、気付いたあの子が何? というように顔をあげる。わたしはちょっと考えてから、ずっと聞きたかったことを口に出した。 「あのね、進路って、どうするか決めてる?」  わたしたちはもう三年生だから、よっぽど優柔不断な人じゃなければもうそれぞれの進路に向けて準備をしているころだ。わたしだって、目標である大学進学に向けてこうして勉強を進めている。  でも、彼女が志望校を決めたとか、企業に面接に行ったとか、そういう話はまだ聞いたことがない。そもそも彼女の将来の夢だとか、せめて進学と就職のどちらを希望しているかとか、そんな話もしたことがないのだ。 「私は家業を継ぐことが決まってるわよ」  だから、進学か就職かで言ったら就職かな。そう言った彼女に、わたしはえ、とつぶやいてシャーペンを取り落とした。 「家業って、なに? お店でもしてるの」 「飲食店とか、そういうのではないの。詳しくは言えないけど……」  知らなかった、と私が呟くと、だって誰にも言ったことなかったもの、と彼女はカフェオレを一口飲んだ。  あつ、という声が小さく聞こえて、彼女のしろい指が再びシャーペンを握る。白いノートにきれいな字で数式が刻まれていく。 「そんなに頭いいのに、もったいない気もするわね。進学したいとか思ったことはないの」  それ、先生にも言われた。彼女はノートに視線を落としたままそう言った。  動く手のスピードは変わらない。わたしも取り落としたままだったシャーペンを握りなおして、それでもテキストの上で視線が上滑りして頭に入ってこなかった。  目の前の少女はもうとっくに自分の進む道が決まっていて、それに向かって進んでいるのだとはっきり分かってしまったから。  家業を継ぐんだって、決まりきった声色で口にした彼女の顔には覚悟が滲んでいた。彼女はもう、自分の道をしっかりと歩み始めているのだ。  わたしなんて、大学進学が目標とか偉そうなことを口にはするけど、その実やりたいことなんて何も浮かんでいない。  なんとなく行っとけばいいかな、みたいな気持ちで進学を選んで、理数が苦手だから文系の学部。なるべく家から通えるところで、自分の学力に見合ったレベルの大学。自分が何をしたいのか、何になりたいのか全く想像できなくて、このままでいいのかなんて最近よく考える。  わたしがそんな風にぐだぐだ足踏みをしている間に、彼女はもう前を見据えて足を踏み出していたのだ。  ぐらりと小さな不安が顔を出す。一生懸命見ないふりをして、それでもそろそろ無視できなくなってきていた不安。  もしかして、わたしは何者にもなれずに一生を終えるのではないか―― 「将来の夢とか、進路とか、あまり考えたことがなかったの」  正面から聞こえてきた呟くような声に、私ははっとして顔をあげた。あの子は相変わらず視線を落としたままだけど、数式を刻む手は止まっている。  ふう、と一つ大きく息を吐いて、彼女はシャーペンを置いて頬杖をついた。  軽く腕まくりをしたセーラー服の袖からしろい手首が覗いている。手の甲の上に乗った顔はうつむき気味で、耳にかかっていた黒髪が一束はらりと落ちた。 「私はずっと昔から、それこそ生まれた時からほとんどこの道を進むことが決まっていたから。だから、そのために努力を続けてきたし、期待に応えられるようにできることは全部してきたつもり」  だからこそ今の私があるの。そう彼女は呟いて、そしてふっと顔をあげて諦めたような笑みをこぼした。 「それでも、悩まなかったと言えば嘘になるわ。これが本当に私のしたいことなのか、分からなくなることだってなかったわけじゃない」  そうだ。  彼女だって普通の女の子だと言ったのは私だったじゃないか。  彼女だって悩むことがある。迷うこともある。それを他の人よりも少しだけ分かっているのは私ではなかったのか。  わたしたちは言いようのない不安を抱えて生きている。  最初のころは、わたしたちは何にだってなれると思ってた。目の前の道を進んだ先には輝かしい未来が待っているのだと、信じて疑わなかった。  でも、そんな魔法のようなことはないのだと気付き始める。  もしかしたら、わたしって、本当は何者にもなれないんじゃないかしら。これからずうっと、このまま特に何も起こらない、平平凡凡な人生を送るんじゃないかしら。ワクワクするような冒険も、ドラマチックな恋愛も、何も―― 「でも、私は自分の意志でこの道を進むことを決めたし、それを後悔もしてないから」  きんいろの瞳がキラリと輝く。  彼女は見つけたのだ。暗い海の上で、見上げた空に輝く北極星を。トンネルの先に差し込む外の光を。砂舞う砂漠の中央に広がるオアシスを。  ワクワクするような冒険も、ドラマチックな恋愛も何もなくても、彼女はそこに向かって進むのだ。進んで、結局何者にもなれなくたってそれでいいと、そんな風に思える場所を見つけたのだ。 「わたしも、見つけたいな」  わたしはまだ、何者にもなれないのだと気付くのが怖い。進んで進んだその先に、何もなかった時のことを考えると足がすくむ。  でも、進みたいと思った。怖くても、足が震えても、それでも自分で選んだ道なら歩いて行けると思った。  何年かかったっていい。わたしたちはまだ若者なのだから。まだ、時間はたくさんあるのだから。わたしの目指す場所を見つけたいと、そう思った。  すぐに見つかるわよ、と、彼女は呟いた。
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