砂浜に残されし二通りの足跡

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 片や藤田は仕事の面で父親に追いつこうと努力し腐心したし、金儲けの為に倫理的に葛藤し、それなりに苦労して悩んで来たから幸代のようにはならなくて心は貧しくない上、勝気でも見栄っ張りでもなく情緒纏綿たる性格だから本命だった女が忘れられないのである。  名を春香と言ってアパート住まいで喫茶店のウェイトレスをしていた。藤田はその喫茶店に初めて行った時に彼女に一目惚れして何回か通ったのち彼女に名刺を渡して付き合って欲しいと誘った。態々名刺を渡したのは俗な手だとは思いながらも玉の輿に乗れるよと暗に言う為であったが、名刺を渡すまでもなく春香は藤田の紳士的な態度に心を動かされて誘いに乗ったのであった。  春香は幸代に負けず劣らずの器量よしでルックスだけでなく中身も見るべきものが有り、藤田は幸代と結婚する前、春香と神社仏閣名所旧跡巡りや美術館や劇場やミュージックホールに行くことがあったが、幸代と違って話し甲斐が有り、喜びを共有できたのであった。  春香との思い出は数々あれど、とんがった雄花とまん丸い雌花を咲かすソテツが印象的な庭園がある海辺の別荘で彼女と過ごした時のことが藤田は殊に忘れられないのである。潮風が香り波光が煌めき潮騒が鳴る海を心地よく感じ合い語り合い手を繋ぎ合いながら歩いた砂浜。朝日が水平線から顔を出す夜明けも夕陽が水平線に沈む夕方も月が中天に昇る夜中も大空と大海原の壮大な自然が織りなす光と闇と音と風のマジックが風光も情趣も機微も解する二人の心の琴線に触れて自ずと二人をロマンチックにするのだった。しかし、幸代と海辺の別荘へ行く度にその砂浜を歩いてみると、どの時間帯でもロマンチックにはならなかった。当然、足跡が残るが、藤田は春香と歩いた時と違って自分の歩調が乱れていることが分かった。それは歴然としていて藤田の幸代に対する心の蟠りを如実に物語っていた。
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