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学園祭の次の日、僕はクラスの模擬店の後片付けをしている最中も演劇の事で頭がいっぱいだった。
考え事をしながらであったので、時折ボケっとしたまま突っ立っていたりした。
普段は他人に無関心なクラスメイトも流石に「こいつはなんだかおかしいな」と思ったらしく、何人かから「内海君、どうかしたの?」と声をかけられてしまった。
いかんいかん……、心ここにあらずというのがバレてしまっているではないか。
蟻の穴から堤も崩れると昔から言う通り、これがきっかけとなって僕の心の内に潜む問題が知られてしまってはいけない。
しっかりするんだ昭雄。いくら普通の学校になじめない問題児が全国から集まった学校とは言え、さすがにLGBTが自分のクラスに居るとなれば露骨に嫌悪感を示す奴だっているだろうし、それこそ数少ない陽キャラ連中に目を付けられかねない。
テレビやネットの世界じゃすっかり市民権を得た感じのあるLGBTとはいえ、リアルの世界では排除される対象であるに違いない。
僕は演劇の事を考えないよう、周囲には「僕はいつも通りだよ!」とでもアピールするかのように気を付けながら、模擬店の後片付けを手伝った。
午前中に学園祭の後片付けは終わり、部活動に向かう者や下校する者に別れ教室はすっかり空になった。教室の中に残っているのは僕一人だ。
僕は1人、自分の席に座り窓の外に広がる校庭を見つめていた。校庭では陸上部の連中がランニングをしていたり、サッカー部の連中、野球部の連中……、体育会系の部活の連中が動き回っている。普段は何とも思わない校庭で部活動に勤しむ連中を見て、僕の胸は期待と不安の入り混じった脈動を繰り返していた。
もう7月も半ばだ、今更部活動に入るとして他の部員とうまくやっていけるだろうか? 演劇部に入りたいと思った動機を深く突っ込まれて僕がトランスジェンダーだとバレるようなことがあったらどうする? 気持ち悪がられるかな……?
やっぱり、演劇部に入るのなんて止めるか?
僕はじっとりと汗をかいた両の拳を固く握りしめた。
ここで考えてたって仕方がない、演劇部の部室に行こう!
意を決した僕は椅子から立ち上がり、教室を後にした。
演劇部の部室は校舎1階の奥、廊下の突き当りにあった。部屋の引き戸の窓の部分はカラフルな模造紙で目張りがしてあり、その上に筆文字で『ようこそ演劇部へ!』とダイナミックに書いてある。
僕は部室の前で黙って部屋の引き戸を見つめ、固く両の拳を握りしめていた。
……やっぱりやめよう。それにこんなところに突っ立ているところを演劇部のヤツに見つかったら、入部希望者だとバレてしまう。
なにせここは廊下の突き当りなのだから、ここに立っているという事は演劇部に用事がある者ですと宣言しているのと同じことだ。
あーヤメヤメ! 演劇部に入るかどうかは家に帰ってじっくり考えよう。何も今日、急いで結論を出す必要はないではないか!
僕はブンブンとかぶりを振りながら、回れ右をしてその場から離れようとした。
「キミ……、入部希望者……だよね?」
回れ右をした僕の目の前にブルーのリボンタイを付けた女の子が立っていた。タイの色からして2年生、そしてその顔は学園祭の舞台『ベルサイユのバラ』でオスカル役を演じた山内 ひかり、その人だった。
学園祭の舞台とは違い、今日はカツラも被っていないし、もちろん濃いメイクもしていない。それでもその顔立ちはまるで女優の様に美しく、どこか品格と知性を感じさせる。それに全身はまるで宝塚歌劇団の女優ようなルックスをしている。
僕は突然目の前に現れた山内 ひかりに驚いてしまい、……ただただ彼女を見つめたまま、まるで蛇に睨まれたカエルの様に硬直してしまった。
「さっきからずーっとそこに立っていたから、声をかけようかどうか迷ったんだけど……、なんだか話しかけづらい雰囲気だったからさ」
どうしよう? 僕が入部希望者で、部室の引き戸を開けようかどうか、躊躇っていたのがすっかりバレてしまっているではないか……。
こうなってしまったからには「はい! 入部希望者です! 学園祭の山内先輩の演技に感動して、演劇部に入りたいと思いました!」正直にそう言うべきだろう……。
「あ……、あの、ぼ、ぼ、ぼ、僕は、が、学園祭で……」
決意に反して上手く言葉が出てこない。これではきっと「そんな上がり症でよく演劇部に入ろうなんて思ったね」と、笑われてしまうに違いない。
しかし彼女の反応は僕の予想とは違った。
「学園祭の舞台、見てくれたの!? 嬉しい! さ、いきなり入部しなくてもいいから、まずは見学して行ってよ!」
彼女は満面の笑みでそう言いながら僕の手を握ると、引き戸を開けて僕を部室に引き込んだ。
部室の中では、台本のようなものを読んだり、鏡に向かって表情の練習をしたり、演劇部の部員たちが各々に準備をしていた。
その部員たちが一斉にこちらに注目をした。
「みんな! 今日は見学者がいるよ!」
山内先輩の良く通る美しい声に、他の部員がまるで僕を値踏みするような視線を向ける。
「えーと、キミはイエローのネクタイだから1年生だよね? 名前は?」
山内先輩がそういって僕に向けた笑顔に、思わずドキっとしてしまう。
「あ、はい……、ぼ、僕は内海 昭雄です……。1年C組です」
「今日は内海君が見学していくから、みんな気合い入れて行こうね!」
山内先輩の呼びかけに、他の部員が一斉に「はい」と返事をして、僕に向かって拍手をした。
拍手とか……そういうのはやめてくれよ。恥ずかしいったらありゃしない。
「演劇部ってさ、男の子が足りないんだよね。是非とも入部してほしいなぁ……。今日はじっくり見学していってね!」
相変わらず彼女の笑顔は美しい。彼女は壁際に置かれた椅子の方を指して、僕に座るように促した。
僕はまるでロボットダンスでもしているかのようにギクシャクした挙動で壁際に置かれた椅子まで歩いて行った。
「さぁ、それじゃあストレッチ始めるよー!」
山内先輩の掛け声で、皆一斉にストレッチをはじめた。演劇部なのだから、いきなり芝居の稽古に取り掛かると思ったら、どうやら違うらしい。
10分ほどの入念なストレッチが続いたあと、再び山内先輩が部員に声をかける。
「次は発声練習をするから、みんな並んで!」
山内先輩の掛け声に、部員たちが立ち上がり、素早く2列に並んだ。
「ア、エ、イ、ウ、エ、オ、ア、オ!」
山内先輩がそういうと、他の部員が後に続いて同じ声を出す。
「アメンボ赤いな、アイウエオ!」
そんな感じで発声練習が続いた。
皆、よく通る声をしている。高校生の部活とは言え、やはり演劇を学んでいる者の発声は違うなぁ。
その中でも山内先輩の声は一際よく通るし、美しい……。僕も入部して演劇に打ち込めば、こんなよく通る声が出せるようになるのだろうか?
発声練習はいつしかメロディーを付けたものになっていった。
先ほどの「アメンボ赤いなアイウエオ」にメロディを付けて皆が歌っている。
それにしても、みんな楽しいのか表情が生き生きとしているように見える。これが青春ってやつなのかな……。
今まで青春とは縁遠い生活を送ってきた僕にとって、この光景は妬ましく思えた。それと同時に、自分にもこんな青春ってヤツが待っているのかと期待に胸が膨らんだ。
15分ほどの発声練習を終え、部員各自がペットボトルや水筒に入った飲み物を飲んで水分補給をしている。
山内先輩をはじめ、どの部員も額から汗を流している。高校の演劇部なんて、所詮は素人のお遊び……、そう思っていた僕はなんだかみんなに申し訳なく思えてきた。
少なくともここにいる全員は真剣に演劇に打ち込んでいるに違いない。こちらに伝わってくる真剣さのせいか、僕も両の掌にじっとりと汗をかいていた。
部員が一通り水分補給を終えたところで、再び山内先輩が部員に呼びかけをした。
「それじゃあ、今日は内海君が見学に来てくれているから、演劇部らしく芝居の稽古をしましょう。池田さん、皆にいつもの『竹取物語』の台本を配って」
山内先輩にそう呼びかけられた池田という名の1年生の女子が、壁際の本棚に収められた台本らしき束を取り出し各部員に配っていった。
「内海君、今日は『竹取物語』をやるから、しっかり見て行ってね」
先輩が僕の方を見て笑顔でそう言った。
いつも稽古で使っている台本なのだろうか? みんなに配られたそれは、随分と使い古されたように見えた。
部員たちに一通り台本を配り終えた先ほどの女子が、壁際の戸棚を開けて何やら複数本の棒が入れられた、箸立てのようなものを取り出し、各部員に一本ずつ棒を取らせている。
一体何をしているのだろう? 僕はそう思わずには居られなかったのだが、そんな僕の心境を知ってか知らずか、山内先輩がこちらに振り返ると僕の顔を見つめて言った。
「あれはね、配役を決めるクジなの。あの棒には番号が書いてあってね、台本の最初のページには番号と、それに対応した配役が書いてあって即興で、割り当てられた役になり切って演技をするの。
……どう、なかなか面白いでしょ?」
へえ……、なかなか面白そうじゃないか。
先輩から聞いた独特の稽古の方法に、僕は興味をひかれた。いや、そもそもこの方法は、この学校の演劇部特有の稽古方法なのだろうか?
それとも、全国の演劇部ではありふれた稽古の方法なのだろうか? 演劇の『え』の字も知らない僕にとっては、そこら辺の事情はよく分からない。
「皆、自分の役は確認した? じゃあ、これから10分で台本の自分の役の部分を読んで」
山内先輩が、よく通る声で皆にそう呼びかけると、部員たちは一斉に台本に視線を落とし、静まり返った部室では時折台本のページがめくられる音がするだけとなった。
「内海君、私ね、今回は竹取の翁の役が当たったよ。男の人の役って、あんまり得意じゃないんだけど、頑張るね!」
彼女はそう言って僕に微笑みかけると、台本に視線を移した。つい今しがたの笑顔とは打って変わって真剣な表情をしている。
男の人の役が得意じゃないって……。きっと彼女は謙遜しているのだろう。学園祭でオスカルの役を演じた彼女の演技には、確かに人を引き込む魅力があった。
『ベルサイユのバラ』のオスカルは男ではなく、男装した女性という設定だ。ただ、そういった次元の低い話ではなく、彼女ならば男の役だろうと難なく演じてしまうだろう。
僕はまるで一端の演劇評論家が旧知の俳優を褒めるがの如く、彼女の演技に全幅の信頼を寄せていた。
「はい。じゃあ、稽古を始めるよ! みんな、準備はできた?」
僕が山内先輩の演技についてアレコレ考えているうちに、もう10分が経ってしまっていたようだ。
彼女の呼びかけに応じて座っていた部員たちが立ち上がり、あっという間に部室の中央にスペースが空けられた。
すると、ブルーのネクタイをした2年生の男子が立ち上がり、山内先輩ほどではないが、よく通る声でセリフを読み上げた。
「今は昔、竹取の翁という者ありけり。野山に混じりて竹を取りつつ、萬の事に使いけり」
どうやら彼はナレーターの役らしい。
山内先輩が中央に空けられたスペースに進み出てきた。
「おや? これは一体どうしたことか? 竹が金色に輝いておる!」
僕の読みは外れていなかった。山内先輩は慣れた様子で竹取の翁を演じている。
……セリフの抑揚の付け方、……そしてまるでそこに竹があるかのような身のこなし方は、学園祭で見たオスカルの演技を思い起こさせる。
もちろん、他の部員だってなかなかに魅せる演技をしている。さすがに1年生部員ともなると、成長の道半ばといった感じの初々しさが垣間見えるが、それにしても入部してから半年かそこらでこれだけの演技ができるのだから、大したものだと思う。
……いや、それともここにいる1年生の部員たちは全員演劇経験者なのだろうか? この学校が特に演劇で有名だとは聞いたことがないが……。
それとも、ずぶの素人から猛練習の末にここまでの実力を身に着けたと言うのか?
だとしたら、今から自分が入部して彼らに追いつけるのだろうか?
……そんな事はやってみなくちゃ分からない。ここまで来たんだ、全力でやるだけやってみればいいじゃないか!
稽古が終わった時、僕は思わず拍手をした。稽古とは言え、彼らの熱のこもった演技に気圧されてしまい、拍手をせずにはいられなかった。
……そう言った方が正しいだろう。
目の前で生の演劇を見せつけられたという演出が僕の気持ちを底上げしたのかもしれない。
高揚した気分のせいもあってか、僕は自分がこれからこの演劇部の一員に加わるかもしれない未来に、すっかり嬉しくなってきてしまった。
僕からの拍手を受けて、部員たちは皆一様にはにかんだ様な表情をしている。自分が真剣に打ち込んでいるものを称賛されれば、誰だって嬉しいものに違いない。
「どうだった内海君? 演劇部に入りたくなった?」
額から一筋の汗を流しながら、山内先輩が笑顔で僕にそう尋ねてきた。
はい、もちろんです!
……そう答えようと思った矢先、自分みたいなド素人が、ここでやっていけるのだろうか? そういう気持ちが急に湧いてきて、僕の口を噤ませた。
それは一瞬の出来事ではあったが、僕は2人の間に流れる気まずい沈黙に耐えることが出来なくなり、山内先輩から目を逸らして俯いた。
「……急いで決めることは無いからね。2~3日、じっくり考えてみて」
彼女は明るい声でそう言ったが、その声には少なからず困惑と落胆の色が混じっているのを僕は聞き逃さなかった。
「……はい、ありがとうございます。皆さんの気迫のこもった演技に気圧されてしまいました。入部の事は、じ……、じっくり考えます!」
慌てて顔を上げ、彼女をフォローしようと精一杯前向きな返事をしたつもりであったが、自分で聞いていてもハッキリと分かるくらいに上ずった声色になっていた。
これでは山内先輩をフォローするどころか、逆効果ではないか。
きっとこの子は脈無しかなって、そう思っているに違いない。一体、何をやっているんだ、僕は……。
「あ、あの、帰りのバスの時間があるんで、……ぼ、僕は帰ります。今日はありがとうございました」
そう言って先輩の顔も見ずに、逃げるように演劇部の部室から廊下に出ると、僕は足早に正面玄関に向かった。
帰宅部である僕は普段こんな時間にバスに乗る事が無いので、本当はバスの時間なんて分からない。だけど、あれ以上あそこにいたら山内先輩だけではなく演劇部の皆まで困惑させてしまうに違いない。
今は一刻も早く……、一刻も早くあの場から立ち去る事が最善の選択なんだ。
そんなことを考えながら、時刻を確認しようと左腕にした腕時計を見る。けれども視線が泳いでしまって正直なところ時刻を確認するどころではなくなってしまっていた。
学校のある高台からバス停のある道路まで急いで坂を下ると、薄暗い景色の中に見慣れた『南ヶ丘』のバス停が見えてきた。
駅まで行くバスを待とうかと思ったが、演劇部の部員に会うのが怖くなって、僕は結局駅まで歩いて帰った。
その日、すっかり遅くなって家に着いた僕が祖母にこっ酷く叱られたのは言うまでもない。
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