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「お願いだから『も』をくれないか。」
男は懇願した。しかし、私が『も』を渡す事はない。なぜなら、私は『も』など持っていないからである。
「あと、私が持っているのは『う』くらいなものだ。これが嫌なら、後は『りょーしか』くらいしかない。これは嫌だろ。開けても開けても小さいのが出てくるぞ。それに一度遊んでしまえば、二回目からはそんなに楽しくない。」
男は私の言葉を膝をつきながらうなだれて聞いていた。
「大体なんでお前は『も』が欲しいんだ。何もなくたっていいじゃないか。」
男がゆっくりと立ち上がる。
「俺は何をやってもだめだ。他人が当たり前にこなす事が俺にはできない。何かをまとめても結局誰のためにもならない。まとりになっても簡単なミスで犯罪者を取り逃がしてしまう。まともじゃないんだよ、俺は。分かるか、この悲しみが。他人より劣っているというこの悲しみが。」
男は泣いていた。男の中の悲しみが目を通して一筋の流れを彼の頬に生じさせた。
「そんなものかね。」
とは言え、男の悲しみは彼だけのものである。男の涙からその悲しみを推測する事はできるが、それでさえあくまで推測に過ぎないのだ。結局のところ私にその悲しみに同情できるような事は何もない。
「別に他人と比べて劣っていたっていいじゃないか。他人との差を個性というのさ。」
私は特に熱血漢でもない。この男が何に悲しみ、涙を流そうが知った事ではない。だから、こう言った私の言葉さえ、「明日は晴れらしいよ。」くらいの世間話に過ぎないのだった。
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