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「よ! 久しぶり」
店の外を掃除していると、そんな懐かしい声が聞こえた。彼女だ。
十五年ぶりだろうか。彼女が夫と共に海外に行って以来だった。
以前より少し痩せたようだが、それ以上に気になったのは、瞳の輝きが少し薄れたように見えた事だ。
重そうな旅行鞄をいくつも抱えている。単なる帰省ではなさそうだった。
「それ、持とうか?」
「ありがとう。でも実家に運び込むだけだから大丈夫」
そう言って、お隣を指した。彼女の実家の喫茶店だ。持ってきたとは、どういう意味だろうか。
「帰ってきたの?」
彼は、おそるおそる訊ねてみた。すると彼女は、快活に笑いだした。
「そう、出戻りってやつ! てわけで、また仲良くしてやってね」
そう言って、バシバシ肩を叩く。腕力は以前より増したようだ。
「し、仕事は? 喫茶店手伝うの?」
「そうだね、実家とはいえ居候だし、手伝わないとね。でも人手はもう一人いるし」
もう一人、誰かいると言った。だがお隣は、彼女の母が亡くなって以降、マスターである彼女の父が一人で切り盛りしている。どういう意味か咄嗟にはわからなかったが、次の瞬間に、声が聞こえてきた。
「母さん、早く入ってよ」
お隣のドアベルが鳴り、ひょこっと少年が顔を出した。そして、彼女を”母さん”と呼んだ。
「あ、紹介するね。うちの息子。まだ中学生だけど、イケメンでしょ」
「どうも」
「親子ともどもよろしく!」
少年は、恥ずかしそうに会釈した。金色の髪に白い肌、だけど目元は彼女とそっくりだった。
「……ああ」
会釈を返すので、精一杯だった。
外国へ行って、子供を産んで、おそらく離婚して、久々の日本、そして母子家庭。どれほど苦しい思いをしただろうか。そしてこれからもどれほど辛酸を舐めるのだろうか。そう考えると、ただでさえ重い口はさらに重苦しくなった。
沈黙があまりに辛く感じたその時、彼はふと気付いた。
「ちょっと待ってて」
彼は店の奥に行き、数分で戻ってきた。その手には、花束が握られていた。
緑色の薔薇が21本。それを見て、彼女も彼女の息子も、驚いていた。
「緑のバラ……そんなのあるんだ」
「ああ。花言葉は『希望を持ち得る』。だからその……」
これもまた、何と言えばいいか分からなかった。『頑張って』も『元気を出して』も、あまりに無責任だ。だからといって、他人である彼には、他に言葉も思いつかない。
まごつく彼の言葉を察してくれたのか、彼女は微笑んだ。
「ありがとう。誕生日、覚えててくれたんだね」
彼女の目にうっすら涙が滲んだその時、店の奥からパタパタと足音が聞こえてきた。
「お父さん、どうしたの? お客さん?」
黒髪をポニーテールにした中学生くらいの少女が、エプロンを着けて出てきた。
目を丸くする彼女とその息子に向けて、彼は少女を紹介した。
「娘です」
「わ……本当? 可愛い!」
娘は、ストレートな誉め言葉に顔を赤くした。彼女はさらに店の奥を覗き込んだ。
「奥さんは?」
「あ……病気で2年前に……」
彼女は気まずそうに口をつぐんだ。重くなりそうな空気を破ったのは、彼女の息子だった。
「隣に越してきたんだ。これからよろしく」
彼女の息子は、そう言って娘に手を差し出した。娘はさっき以上に顔を赤くして、その手を握り返した。
彼女に似て社交的な息子と、彼に似て恥ずかしがりやな娘は、数日後から同じ学校に通い出した。
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