プロローグ

6/7
前へ
/138ページ
次へ
 舞依は父親の明夫が、ずぶぬれで帰宅した自分の心配よりも赤の他人の家政婦のことを気にしていることに一抹のさみしさを覚えた。血のつながりのある家族は、この家では二人だけなのに普通の親なら昨日は何があったのかと心配するのが普通ではないかと思った。 「おい、このまま帰ろうとするな。ここまで来たなら、目の前の桜の木にお辞儀をしてから帰りなさい」 「えっ、うん。分かったよ」  舞依は桜に向かって、軽く頭を垂れて手を合わせた。 「いいか。この桜の木は、遠い昔からあってその頃からここは立派な桜の木があるということで村では有名だったんだ。我が家はこの辺り一帯を治めていた領主でな。桜木という名字もこの桜の木にちなんでできたものだと言われている。昔はこの桜を目当てに遠方からたくさんの人が集まったらしい。この桜は、色んな人との交流の場に一役買ってくれた有り難い桜なんだよ」  明夫はそこで一旦言葉を切ると、大事そうに桜の木を触っていた。 「そう考えると、うちはこの桜のおかげで発展していったと言っても過言ではないと言えるな。我が家にとっては大事なご神木ともいえる桜なんだよ」   まるで全文を暗記しているかのようにすらすらと口をついて出る明夫に、舞依は面白くなさそうに下を向いていた。 「うん、分かってるよ。もう昔からその話は何度も聞かされてるからさ」 「お前は我が家の大事な一人娘なんだ。我が家の後継者として、このことはしっかり肝に銘じておかなくてはいけないんだぞ。そんな面倒臭そうな言い方をするな!」  思わず声を荒げた明夫に、舞依ははじかれたように肩が震えた。 「ごめんなさい。気をつけるよ。もう部屋に戻っていいかな?」  舞依は明夫の機嫌を確かめるように恐る恐る質問をしていた。 「うむ、分かればいいんだ。早く戻りなさい。今日はピアノのレッスンのある日だったよな」  舞依は幼少の頃から、ピアノやクラシックバレー、茶道など色々な習い事を父親の指示でやらされていた。それ以外にも学習塾にも通っていたし、毎日休む暇もない日々が続いていた。  舞依は家に上がると、麗奈のいるキッチンに向かった。麗奈は台所に立って夕食の準備をしていた。  落ち着いた北欧風の作りのダイニングルームには、既に食卓にお皿が並べてあった。  舞依はしばらくためらった後、喉の奥から絞り出すように声を発した。 「あ、あの・・・麗奈さん、昨日はごめんなさい。すっかり家を汚しちゃって・・・」 「・・・」  麗奈は、舞依の方を振り向かず皿を洗っていた。カチャカチャと小皿が触れ合う音だけが聞こえる。ジーンズ姿の麗奈の年齢は四十を過ぎていたが、後ろから見ても均整のとれたプロポーションをしていると舞依は思った。  舞依は母がいなくなった後から家政婦として入ってきた麗奈が好きではなかった。父親が不在の時は、まるで父親が乗り移ったかのように舞依に色々と    
/138ページ

最初のコメントを投稿しよう!

27人が本棚に入れています
本棚に追加