43人が本棚に入れています
本棚に追加
15 蒼い満月の夜
岸に上がった将軍は、草の上に置いてあった浴布で、頭をごしごし拭き始めた。当番兵が、水で洗って陽の光に晒しただけの、ごわごわした布地だ。
ひとしきり髪を拭き終わると、リネンのシャツを身に着けた。下は、ゆるい普段着のズボン。どちらも、相当に年季が入った、ボロ着である。
まあ、いつものことだけど。
大きな岩の上に、足を組んで座る。
……あれ。
……なんだか。
どうしてだろう。ひどく寂し気に見える。
あのお気楽エロ将軍が。
声を掛けようとして、しかし、掛けられなかった。
見てはいけない将軍の姿を、見てしまったような気がしたからだ。
まあ、声を掛けても、言葉は通じないわけですけど。
自分も岸に上がり、楓の葉っぱの下に隠れて窺っていると、ため息が聞こえた。
ため息?
ノーテンキな将軍が?
聞き違えか?
両足を組んだまま、将軍は岩の上にあおむけに寝転んだ。
頭上では、珍しい蒼い月が、彼を見下ろしている。
「……」
将軍が何か言った。
「私の将軍」と、聞こえた。
何だ、そりゃ。
蒼い月の光が、仰向けの顔を、真上から照らす。
彼が、意外と端正な顔をしていることに、初めて気がついた。
……あれ?
右頬の傷が、化膿しかけている。落馬した時にできた傷だ。おおかた、かすり傷だと、放置していたのだろう。
……軍医も連れずに、遊びに行くから。
俺は忌々しく思った。
……連れていくなら、軍医だろう。ルイーゼじゃなくて。
ケンタウロスには、傷を治すことなんかできやしない。
化膿した傷をそのままにしておいたら、ただでさえ傷だらけの将軍の顔が、余計、ひどいことになりそうだ。クジャクじゃないんだ。傷や痣で飾られ、これ以上、カラフルになる必要もないだろう。
*
ぴたっ。
仰向けになって月を眺めているロンウィの顔に、何かが張り付いた。
「うっ!」
百戦錬磨の将軍が、飛び上がる。
それほど不気味な感触だった。
ぬるぬる。
べちゃべちゃ。
頬に張り付いたそいつは、動いている!
「なななな、」
ひっつかんで、引き離そうとしたが、剥がれない。
ぬるう。
べちゃあ。
ロンウィの指を、一本一本、ぬめっていく感触。
赤い、細い……。
舌?
「うわあっ!」
5歳の時に、姉に背負い投げされて以来、25年ぶりで、ロンウィは、悲鳴を上げた。
「ゲロゲーロ」
咎めるような、カエルの声。
「あれ?」
「ゲロゲーロ!」
「グルノイユか?」
「ゲロ」
「悪い。気がつかなかった」
カエルなんて、全部同じに見えそうなものだが、ロンウィには、バーバリアンの小公子は、他のカエルと違って見えた。
つややかな黄緑で。
可憐な、つぶらな眼。それから、ちょっと扁平に横に広がった顔。
小さな手足には、ちゃんと水かきがついていて、それが凄くカワイイ。
声だって、最初は衝撃のあまりわからなかったが、これは確かに、グルノイユの鳴き声だ。
ハスキーで、でも高音域はなめらかで、保護欲を誘うというか……。
姿かたちも声も、まるで違う。
グルノイユは、他のカエルたちとは、全然違う。
ロンウィが、懸命に目線を下げると、自分の頬に張り付いているのは、間違いなく、バーバリアンの小公子だった。
「そこで何をしてるんだ、グルノイユ」
「ゲロ」
青い月の光を浴びた小さなカエルは、とてもキュートで可憐だった。
「そんなところにいないで、降りて来いよ。お前もハーレムの一員なんだから……」
眼球目掛けて飛んできた水かきのある足を、危ういところで将軍は、瞼で受け止めた。
「うわっ! 危ないじゃないか。目に刺さるところだった。あのな。別に変なことをしようってんじゃないよ? そっちは、間に合ってる。ただ、お前とゆっくり話したことって、ないだろ? そこにいたんじゃ、話しにくいから」
「ゲゲゲゲ」
バーバリアンの小公子は、ひどく立腹しているようだ。そのくせ、一向に、ロンウィの頬から剥がれようとしない。
「居心地いいか、そこ」
諦めて尋ねた。
水かきのついた小さな足で、頬を踏みつけられた気がした。
「まあいいや。居心地がいいなら、しばらくそうしてるといいさ」
再び、ロンウィは、岩の上にあおむけになった。
相変わらず月は、蒼い光を放ち、完璧な円形をしている。
「普段はなあ。月がうまそうだな、って思うんだ。なんというか、冷たい砂糖菓子みたいで」
頬の上で、カエルが笑った気がした。
「でも、今夜の月は違う。いや、きれいだよ。とてもきれいだ。でも、食べたらいけない気がする。なあ、グルノイユ。本当に好きなものは、食べてはいけないんだな」
……何言ってんだか。
ぬめぬめした皮膚を通して、カエルの心の声が聞こえた気がした。
「グルノイユ。俺は栄光が欲しい」
……栄光?
ぬめぬめのべちょべちょが、僅かに動いた。というか、横に流れた。頬からはみ出し、耳たぶにぬめぬめが触る。
グルノイユとわかってからは、不思議と気持ち悪さはなかった。それどころか、ここ数日、ひどく疼いていた頬の傷が、ひんやりと冷やされ、気持ちがいい。
カエルを頬に載せ、月を見上げたまま、ロンウィは続けた。
「金が欲しいんじゃない。富もいらない。そんなものは、いつだって手に入れることができる。俺はな。栄光を手に入れたいんだよ。小さいのじゃだめだ。過去に得た小さな栄光を犠牲にしてでも、大きな栄光を手に入れるんだ。俺はいつだって、栄光を更新して生きていく。命を賭けて」
ぬべ。カエルが動く。
ねちゃねちゃした感触が、今はとても心地いい。
ロンウィはうっとりした。気がつくと、心に秘めている思いを口にしていた。
「そうしないと、あの人の傍らに並べないから。いや、並ばなくたっていい。いつもそばにいる許しを得たいんだ。俺は、あの人を守るよ。生涯、守り続ける。だが、今のままではダメなんだ。栄光がないと。それほど素晴らしい人なんだよ、俺の想い人は。いくらだって、自慢したい。だけど、あの人のことは、話しちゃいけないんだ。俺にできることは、素晴らしい栄光を手に入れて、あの人の近くで生きること……」
どのくらいの時が経ったろう。ぬめぬめべちゃべちゃが剥がれた。ヒトの体温を吸収して、すっかり頬と一体化していたそれは、何の前触れもなく、ほろりと取れた。
涼しい風が頬を撫で、ロンウィは、目を覚ました。
「あれ、眠っちゃってたか?」
頬が、すごく寂しい。
慌てて頬に手をやると、すべすべした感触がした。
数日来、熱を持ってじくじくと痛んでいた傷が、すっかり完治している。
「グルノイユ?」
返事はなかった。グルノイユの姿は消えていた。眠ってしまったロンウィを置きざりにして、一足先に帰ってしまったものとみえる。
かまわず、ロンウィは続ける。
「これ、お前が治してくれたのか」
「……」
「そういえば、バーバリアンの幼生には、腫れ物を治す力があると、聞いたことがある……」
岩の上に座り直し、将軍は考え込んだ。
最初のコメントを投稿しよう!