15 蒼い満月の夜

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15 蒼い満月の夜

 岸に上がった将軍は、草の上に置いてあった浴布で、頭をごしごし拭き始めた。当番兵が、水で洗って陽の光に晒しただけの、ごわごわした布地だ。  ひとしきり髪を拭き終わると、リネンのシャツを身に着けた。下は、ゆるい普段着のズボン。どちらも、相当に年季が入った、ボロ着である。  まあ、いつものことだけど。  大きな岩の上に、足を組んで座る。  ……あれ。  ……なんだか。  どうしてだろう。ひどく寂し気に見える。  あのお気楽エロ将軍が。  声を掛けようとして、しかし、掛けられなかった。  見てはいけない将軍の姿を、見てしまったような気がしたからだ。  まあ、声を掛けても、言葉は通じないわけですけど。  自分も岸に上がり、楓の葉っぱの下に隠れて窺っていると、ため息が聞こえた。  ため息?  ノーテンキな将軍が?  聞き違えか?  両足を組んだまま、将軍は岩の上にあおむけに寝転んだ。  頭上では、珍しい蒼い月が、彼を見下ろしている。 「……」 将軍が何か言った。  「私の将軍」と、聞こえた。  何だ、そりゃ。  蒼い月の光が、仰向けの顔を、真上から照らす。  彼が、意外と端正な顔をしていることに、初めて気がついた。  ……あれ?  右頬の傷が、化膿しかけている。落馬した時にできた傷だ。おおかた、かすり傷だと、放置していたのだろう。  ……軍医も連れずに、遊びに行くから。  俺は忌々しく思った。  ……連れていくなら、軍医だろう。ルイーゼじゃなくて。  ケンタウロスには、傷を治すことなんかできやしない。  化膿した傷をそのままにしておいたら、ただでさえ傷だらけの将軍の顔が、余計、ひどいことになりそうだ。クジャクじゃないんだ。傷や痣で飾られ、これ以上、カラフルになる必要もないだろう。 *  ぴたっ。  仰向けになって月を眺めているロンウィの顔に、何かが張り付いた。 「うっ!」  百戦錬磨の将軍が、飛び上がる。  それほど不気味な感触だった。  ぬるぬる。  べちゃべちゃ。  頬に張り付いたそいつは、動いている! 「なななな、」  ひっつかんで、引き離そうとしたが、剥がれない。  ぬるう。  べちゃあ。  ロンウィの指を、一本一本、ぬめっていく感触。  赤い、細い……。  舌? 「うわあっ!」 5歳の時に、姉に背負い投げされて以来、25年ぶりで、ロンウィは、悲鳴を上げた。 「ゲロゲーロ」 咎めるような、カエルの声。 「あれ?」 「ゲロゲーロ!」 「グルノイユか?」 「ゲロ」 「悪い。気がつかなかった」  カエルなんて、全部同じに見えそうなものだが、ロンウィには、バーバリアンの小公子は、他のカエルと違って見えた。  つややかな黄緑で。  可憐な、つぶらな眼。それから、ちょっと扁平に横に広がった顔。  小さな手足には、ちゃんと水かきがついていて、それが凄くカワイイ。  声だって、最初は衝撃のあまりわからなかったが、これは確かに、グルノイユの鳴き声だ。  ハスキーで、でも高音域はなめらかで、保護欲を誘うというか……。  姿かたちも声も、まるで違う。  グルノイユは、他のカエルたちとは、全然違う。  ロンウィが、懸命に目線を下げると、自分の頬に張り付いているのは、間違いなく、バーバリアンの小公子だった。 「そこで何をしてるんだ、グルノイユ」 「ゲロ」  青い月の光を浴びた小さなカエルは、とてもキュートで可憐だった。 「そんなところにいないで、降りて来いよ。お前もハーレムの一員なんだから……」  眼球目掛けて飛んできた水かきのある足を、危ういところで将軍は、瞼で受け止めた。 「うわっ! 危ないじゃないか。目に刺さるところだった。あのな。別に変なことをしようってんじゃないよ? そっちは、間に合ってる。ただ、お前とゆっくり話したことって、ないだろ? そこにいたんじゃ、話しにくいから」 「ゲゲゲゲ」 バーバリアンの小公子は、ひどく立腹しているようだ。そのくせ、一向に、ロンウィの頬から剥がれようとしない。 「居心地いいか、そこ」  諦めて尋ねた。  水かきのついた小さな足で、頬を踏みつけられた気がした。 「まあいいや。居心地がいいなら、しばらくそうしてるといいさ」  再び、ロンウィは、岩の上にあおむけになった。  相変わらず月は、蒼い光を放ち、完璧な円形をしている。 「普段はなあ。月がうまそうだな、って思うんだ。なんというか、冷たい砂糖菓子みたいで」 頬の上で、カエルが笑った気がした。 「でも、今夜の月は違う。いや、きれいだよ。とてもきれいだ。でも、食べたらいけない気がする。なあ、グルノイユ。本当に好きなものは、食べてはいけないんだな」  ……何言ってんだか。  ぬめぬめした皮膚を通して、カエルの心の声が聞こえた気がした。 「グルノイユ。俺は栄光が欲しい」  ……栄光?  ぬめぬめのべちょべちょが、僅かに動いた。というか、横に流れた。頬からはみ出し、耳たぶにぬめぬめが触る。  グルノイユとわかってからは、不思議と気持ち悪さはなかった。それどころか、ここ数日、ひどく疼いていた頬の傷が、ひんやりと冷やされ、気持ちがいい。  カエルを頬に載せ、月を見上げたまま、ロンウィは続けた。 「金が欲しいんじゃない。富もいらない。そんなものは、いつだって手に入れることができる。俺はな。栄光を手に入れたいんだよ。小さいのじゃだめだ。過去に得た小さな栄光を犠牲にしてでも、大きな栄光を手に入れるんだ。俺はいつだって、栄光を更新して生きていく。命を賭けて」  ぬべ。カエルが動く。  ねちゃねちゃした感触が、今はとても心地いい。  ロンウィはうっとりした。気がつくと、心に秘めている思いを口にしていた。 「そうしないと、あの人の傍らに並べないから。いや、並ばなくたっていい。いつもそばにいる許しを得たいんだ。俺は、あの人を守るよ。生涯、守り続ける。だが、今のままではダメなんだ。栄光がないと。それほど素晴らしい人なんだよ、俺の想い人は。いくらだって、自慢したい。だけど、あの人のことは、話しちゃいけないんだ。俺にできることは、素晴らしい栄光を手に入れて、あの人の近くで生きること……」  どのくらいの時が経ったろう。ぬめぬめべちゃべちゃが剥がれた。ヒトの体温を吸収して、すっかり頬と一体化していたそれは、何の前触れもなく、ほろりと取れた。  涼しい風が頬を撫で、ロンウィは、目を覚ました。 「あれ、眠っちゃってたか?」  頬が、すごく寂しい。  慌てて頬に手をやると、すべすべした感触がした。  数日来、熱を持ってじくじくと痛んでいた傷が、すっかり完治している。 「グルノイユ?」  返事はなかった。グルノイユの姿は消えていた。眠ってしまったロンウィを置きざりにして、一足先に帰ってしまったものとみえる。  かまわず、ロンウィは続ける。 「これ、お前が治してくれたのか」 「……」 「そういえば、バーバリアンの幼生には、腫れ物を治す力があると、聞いたことがある……」  岩の上に座り直し、将軍は考え込んだ。
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