ヤカーの女王

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ヤカーの女王

 一九四二年(昭和十七年)、太平洋戦争勃発の翌年、セイロン沖海戦でイギリス軍をセイロン島から駆逐した日本海軍の第一航空艦隊は進路を東にとって日本への帰還の途にあった。 「前方に漂流船らしきもの!」  空母「赤城」を囲む輪形陣の一翼をなす駆逐艦「不知火」の見張りが艦橋に伝えた。 「残敵か?」 「違います!地元の漁船のようです。動力を失い漂流をしているように見えます」 「赤城に連絡!漂流船の捜索の許可を求めろ」  戦闘は終了していたが警戒を緩めるわけにはいかない。だが、海の男として窮地にあるものに援助の手を差し伸べる武士道も廃れてはいなかった。 「赤城から返伝。捜索を許可するとのことです」  旗艦「赤城」からの許可を得て、短艇が下ろされ漂流船に向かった。  船はやはり漁船だった。船内には漁民の遺体が転がっていた。そして生存者一名が見つかった。遺体はすでに腐臭を発しており、伝染病の危険を犯してまで駆逐艦に運びこむことは躊躇われた。生存者もすでに何らかの病を発症しているようだったが、捜索にあたった下士官は艦に連れ帰ることにした。 「なんだか薄気味悪いですね」  船にあがった水兵が下士官に囁いた。なぜかわからないがこの漂流船には禍々しい気配が満ちているように感じられたからだろう。水兵と同様、胸中にふくれあがる不安を抱きながら下士官も黙って頷いた。短艇に乗っていた五名の兵士は皆、無口になっていた。漂流船に漂う腐臭のほかに何かの気配を感じ続けていたからだ。早くこの漂流船から離れたいという気持ちが皆の行動を迅速にさせた。 「火をつけろ」  下士官は漂流船に火をつけ沈めることにした。炎に包まれる漂流船を後に短艇は「不知火」に戻った。生存者一名は医務室に運ばれた。だが、原因不明の症状に対応する治療の術はなくその日の夜に病人は息をひきとってしまった。翌朝、水葬に付すことになり、遺体は一晩医務室に置かれた。 「不知火」の艦内で病人が次々と発生したのは、漁民を水葬してすぐのことだった。病名を特定できない不定愁訴を訴える兵たちで狭い駆逐艦の医務室はすぐにいっぱいになってしまった。艦長は許可を得て、病人を旗艦「赤城」に移すことにした。  イギルス軍を相手にしての海戦の勝利に沸き立っていた「赤城」だったが「不知火」から原因不明の病に罹患した兵が収容されると、またたくまに艦内に病人が溢れるようになった。伝染病が疑われたが、有効な対抗策を講じることができぬまま、病人が次々と医務室に運び込まれ、軍医はもちろん、衛生兵、看護人、衛生下士官たちがその対応に追われた。ある者は嘔吐が止まらず、ある者は気がふれたようになり、ある者は高熱を発し、ある者は失明し、ある者は皮膚病で全身が爛れ、膿が包帯をぐしょぐしょにしていた。  医務室だけでは患者を収容しきれずに艦内に臨時の隔離病床を作り、対応することになった。  赤城の艦内に言い知れぬ重苦しい空気が漂い始めた。  死んだものは海に流され、その数は日、一日と増えていった。 「海軍の最精鋭艦が幽霊船のようになっている」  軍医は呆然としながら現状を憂えた。 「どういうことでしょうか」  看護人が軍医の医学知識にすがるように現状の科学的説明を求めたが軍医も首をひねることしかできなかった。 「不知火で漂流船に乗船した下士官が死ぬ間際に言っていたんですけど・・・」  衛生兵が恐る恐る噂話を口にした。  短艇を指揮して漁船から病人を艦に連れ帰った下士官はすでに死んでいたが、死ぬ間際に言い残したことがあったらしい。 「助け出した漁民が何かを伝えようとしていたらしいんです。うわごとのように同じ言葉を繰り返していたらしくて・・・ただ、その下士官が聞き取った言葉が正確かどうかはわからないんですが・・・」 「何て言っていたんだ?」 「『サンニャカー』あるいは『サンニヤカー』とかいう言葉を繰り返していたそうです」 「『サンニヤカー』?なんだそれは」 「わかりません」  看護人は噂を伝えることしかできず、軍医の問いに対してはかばかしい答はできなかった。 「赤城」に僧侶出身の士官が乗艦していた。  艦内で不吉なことがおこりつつあるという兵たちの噂話に反応し、その男が医務室を訪れた。 「失礼します」 「発病者かね?」 「いえ、自分は日堂晃(にちどうあきら)少尉であります」  軍医の階級は大尉だったから、日堂と名乗った少尉は背をのばしてびしっと海軍式の敬礼をした。 「艦内に蔓延している正体不明の病について、軍医殿が情報を求めていると聞き及びまして報告に参った次第です」 「楽にしてくれ。そうか例の漂流船がらみの話か?」 「はい。実は自分は僧侶でありまして、セイロンに伝わる『パーリー仏典』を研究しております」  軍医は日堂少尉に向き直った。 「『パーリー仏典』?」  聞きなれぬ教典の名に軍医は日堂の言葉を鸚鵡返しにした。 「はい。最古の仏典と言ってもいいものです。その中に『餓鬼事経(がきじきょう)』という餓鬼道の有り様とその業を説いた説話があります」 「私は仏教経典に詳しくないのでね、そこには何が書かれているのかな」 「セイロンでは死者は餓鬼になると考えられています。そして餓鬼となった死者が夜叉となり、あるいは夜叉とともに人間に疫病をもたらす恐ろしい存在になるというのです」   言葉を切った日堂は、軍医にむかってためらいがちに語った。 「死んだ漁民が繰り返し口にしていた『サンニ・ヤカー』という言葉ですが」 「貴官はなにか知っているのかね?」 「はい!『サンニ・ヤカー』というのはセイロンでは禍々しい存在として恐れられている悪鬼のことです」 「悪鬼?」 「あらゆる病魔を蒔き散らすと言われています。『パーリー仏典』の『餓鬼事経』に出てくる夜叉の王の別名です」 「それが、本艦にとりついているというのか。馬鹿馬鹿しい」 「軍医殿、艦内で黒いわだかまりを見たという話が持ち上がっています」  軍医はさすがにそんな話を信じはしなかったが、薄気味悪くは感じた。 「わかった。とりあえずひとつの謎はとけたわけだ。少尉、礼を言う。下がってよし」 「軍医殿・・・」 「下がってよし」  科学者である医師として迷信の類を真に受けるわけにはいかなかった。多少、気に病むこともなくはなかったが、そんなことはけぶりにも見せてはいけない。部下の衛生兵たちはあきらかに落ち着きを失っているように見えた。仕事のためにやむなくここにいるが、できれば早々にここから立ち去りたそうな顔つきをしている。その動きを助長することは慎まねばならなかった。しかし、軍医の思惑とは裏腹に日堂という少尉がもたらしたセイロンの悪鬼の話はいつの間にか艦内に広がっていた。新たな病人の世話をして医務室に報告にきた衛生兵と看護人が恐る恐る軍医に話しかけてきた。 「病人の数が減りません」 「そうだな」 「死人も増えています」 「もうしばらくの辛抱だ。赤道を越えれば、耐え難いこの気候も少しは安らぐ。そうすれば患者も快方にむかうだろう」  多分に自己都合優先の推測だったが、そうでも言わなければ部下たちの不安が高まるばかりだ。 「艦内に何かが巣くっているんじゃないでしょうか」  軍艦だから、艦内は採光に意を払った設計にはなっていない。薄暗いところはあちこちにある。 「海軍軍人たるもの、そのような流言飛語に惑わされてはいかん。そのこと、あまり人に話すな」  軍医は衛生兵と看護人に口止めした。 「はっ」  二人は敬礼をして軍医の医務室を出ていった。彼らがドアを開けたとき、軍医は何かが室内に入ってきたような気配を感じたが、見回しても誰も、なにも、いなかった。ひとり医務室に残った軍医は日誌をつけようと机に向かった。日誌を開いたが、心なしか部屋の照明が薄暗くなったような気がした。天井を見上げる。 ―― 連れて行ってくれ ――  不意に誰かが軍医の耳元で囁いた。 「誰だ?」  軍医があたりを見回したが誰もいない。気のせいだったのだろうか。軍医は再びペンを取り、日誌に向かった。 ―― 連れて行ってくれ ――  さっきと同じ声がした。  軍医は首を振った。声は耳に届いたというよりは、頭の中に直接送り込まれたような気がした。さすがに気持ちが悪かった。あらためて周囲を見回した。  室内の照明が一層暗くなったような気がする。 (何だ?)  入口脇のスイッチに手を伸ばそうとしたとき、また声がした。 ―― 連れていってくれ ――  そのとたん、軍医の視界が真っ暗になった。  息苦しさを覚え、空気を求めて大きく口をあける。だが肺の中に空気が入ってこない。軍医は恐怖で目を見開き、胸をかきむしりながら床にくずおれた。  軍医の手足が人形細工のそれのようにじたばたと動いた。  その動きが狂ったように激しくなり、やがて、急に静かになり、動きを止めた。 「軍医殿?」  医務室のドアが控えめにノックされた。 「何かありましたか?声が聞えましたが」  医務室から返事はなかった。 「軍医殿・・・」  衛生兵がためらいがちにドアを開けた。 「軍医殿?」  衛生兵は背をむけて椅子に座っている軍医を見た。その背中が言った。 「どうした?」 「いえ、室内からただならぬ気配というか、音がしたものですから」 「何もない」  背中が言った。  いつもと違う暗い声だった。 「それならばよろしいのです。失礼いたしました」  衛生兵が軍医の背中に敬礼し、ドアを閉めた。  空母赤城は横須賀に戻った。  帰還の途上で正体不明の病に犯され、海に流されたのは三十名ちかくにのぼっていたが、それが衆目を集めることはなかった。軍医は三十名の病死をすべて「マラリア」として処理していた。  艦を離れる軍医を見て、医務室関係者は皆、目を見張った。帰港まで医務室から出ることなく人と話もしなくなっていた軍医の相貌がかなり変化していたからだ。わずかの間に軍医はかなり老け込み、痩せていた。 「緊張、恐怖、怒り、孤独、狂乱、新たな王国がここに生まれる」  ぶつぶつとうわごとのように軍医がそのようなことを言っていたと、仲間に話す衛生兵がいた。  軍医はその後、行方不明となり失踪人として捜索が開始された。  軍医の家を訪れた憲兵はそこに、無残にも食い散らかされた家族の遺体を見つけた。  だが、そこに軍医の姿はなかった。
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