ヤカーの女王

1/1
前へ
/32ページ
次へ

ヤカーの女王

 一週間後、春日珠子は姥山脳神経研究所に入院した。  期限を定めない長期入院だった。だが、直人も郁美も珠子が退院する日がこないことを知っている。  家族が腫れ物に触るように気を使ってきた珠子が家からいなくなり、春日家に笑い声が戻った。 「これで、もとどおり平和な生活に戻れるわね」  郁美が重荷を下ろしたかのように明るい声で直人に語りかけた。妻の顔から憂いの影が消え去ったのを見て直人もほっとした。これですべてが元通りになる。 「ねえ、お義母さんが残していった鉢植えや家具はどうする?」  入院にあたって生物は持ち込めないことになっていた。植物も例外ではないと言われ、珠子ご自慢のエビネの鉢は家に残されていた。その他、珠子が精魂こめて育てたバラや万年青も同様だった。 「私、花の世話って昔から得意じゃないのよ」  言われなくても直人もそのことは知っている。観賞用植物を気まぐれで買ってみたことが何度かあったが、生命力が強いといわれた木でも、郁美が世話をするとたちどころに枯れてしまうのだ。 「捨ててしまうのも躊躇われるしな・・・」  母親を入院させたとたん、母親の愛していた品々を処分してしまうのも気がひける。エビネの鉢植えをため息をつきながら眺める直人に、理が救いの手を差し延べた。 「お婆ちゃんのエビネね、植木屋さんがとっても珍しいものだから、ちょっと貸して欲しいって言っていたらしいよ」  理が珠子から聞いた話を思い出して直人と郁美に教えた。 「何て植木屋だかわかるか?」 「えーとね、結城園芸っていったっけかな」   「偉いぞ。よく覚えていたもんだ」  さっそく連絡先を調べ、相談をもちかけたところすべて引き取るとのことだった。軽トラックでやってきた結城園芸の男は直人に名刺を渡して、すばやく室内や庭を見回した。名刺には―― 結城園芸 結城恭一(ゆうききょういち)―― と刷られている。 「実は一鉢、挿し芽をするつもりでお借りしたままだったんですよ」  そう言いながら、鉢植えを持ち上げたり、バラの花を仔細に見つめる。花の品定めをしているようだ。結局首を振りながら結城恭一は残念そうに言った。 「お引き取りはしますが、なかなか売り物になりそうなものはありません。引き取りのための手数料をいただきたいのですが、よろしいですか」  ちゃちゃちゃと電卓を叩いて園芸家は直人に見せた。相場勘がまったくないので、相手の言い値を支払うしかなかったが、直人も郁美も損をしたとは思わなかった。  結城園芸は、何鉢かのエビネと、そのほかの鉢植えすべてを持ち帰った。 「なんか、ちょっと感じのよくない人ね」  郁美が初対面の結城恭一の印象を直人に言った。直人も黙って頷く。そばにいた理が珠子から聞いた園芸家と知り合ったきっかけを二人に教えた。 「公園で出張販売をしていたんだって」 「結城園芸が?」 「うん、それでバラの花のことでお婆ちゃんと話があったみたい。一度、私のバラを見にきなさいってお婆ちゃんが誘ったら、家に来たんだって」 「さっき持っていったバラの鉢植え?」 「うん。それで見事なもんだってお婆ちゃん、花屋さんから誉められたみたい」 「私が留守のときね、きっと」 「でも、お婆ちゃん、あの花屋さんのこと好きじゃなかったみたい」 「なんで?」 「エビネを持っていったまま、返してくれないってすごく怒っていた」 (そういうことか)  直人は納得した。植木を物色している様子がどこか卑屈でいかがわしい感じがしていたのだが、あたっていたということだ。郁美も小さく頷いた。いずれにせよ、もう関係のない人だからどうでもいい。すぐに直人の記憶から結城恭一の存在は削除されてしまった。  学校で杏は席が隣同士の日堂仁(にちどうじん)に、珠子が入院した邪禍脳神経研究所の話をしていた。  仁は寺の住職の息子だった。 「珍しい名前だな『邪禍』なんて」  仁が杏がノートの隅に書いた病院名を見ながら言った。 「気味悪い人だったわ。信じられないほど痩せこけていて、ちょっと不気味な感じ」 「ふーん・・・ヤカね、ちょっと聞き覚えのある名前だな・・・」  顎をあげて天井の一点を見つめながら仁が記憶のメモ帳をめくっているそぶりを見せた。 「ヤカ、ヤカ、ヤカーね・・・」 「ググっちゃえばいいじゃない」 「そうだなあ・・・」  杏に自分の知識をひけらかして自慢したかったのだろう仁は、軽い抵抗のそぶりを見せたが結局、スマホで「ヤカー」を検索した。 「あった!これだ」 「何?」  杏が仁のスマホを覗きこむ。 「ヤカーはスリランカの悪魔・悪鬼のこと。インドのヤクシャ、仏教の夜叉と同じ」  仁が検索結果を読み上げた。 「夜叉って、能面のあの怖い女のこと?」 「うん。ここにあるとおり、インドではヤクシャって言うんだけど、これは男の悪鬼で、女はヤクシーって呼ばれているんだ」  検索結果を見て、記憶が蘇ったのか付帯情報が仁の口から飛び出した。 「待って!」  杏の頭の中で何かがひっかかった。  頭に両手をやってうつむき、その何かを思い出そうとした。  目を閉じて眉間に皺を寄せながら頭の中のもやもやを晴らそうと精神を集中させる。  「うー気持ち悪いー、なんだろうー」 「何だ?どうした」 「今の話と結びつくような何かを最近、見たか、耳にしたような気がするのよね」  杏は必死になって記憶をまさぐった。  突然、頭の中に閃光が走った。 「思い出した!」  声が大きかったので、まわりの級友が何人か、びっくりしたような顔で杏と仁を見た。 「病院で先生が言っていたんだ」 「邪禍先生?」 「うん、お父さんが病院の入院患者数を聞いたとき、ヤクシャが一人って答えたの。そのときは俳優の役者のことかと思っていたんだけど・・・」 「悪鬼が入院しているっていったのか?」  苦笑しながら仁が杏の先走りをたしなめた。 「そうよね。でも偶然とはいえ先生がヤカーで入院患者がヤクシャなんて、ちょっと気持ち悪いじゃない」 「本当に役者さんだったんじゃないか」 「そうね」  仁の言を受け入れるふりをしたが、杏は言いようのない不安をおぼえていた。 「女も一人います」  邪禍の言葉が蘇った。 (女ってことはヤクシー?)  さらに「まだ醒めていません・・・」「これもまだ昏睡状態です」と邪禍は言っていた。気になり始めるとすべてが禍々しく感じられてしまう。 (醒めていないって、どういう意味?昏睡状態だって、病状のことじゃないかもしれない)  病院内を見学したときに見た、院内のあちこちに飾られていた不気味な絵画や像、レリーフが杏の脳裏に蘇る。あのときは気持ち悪い程度の感想でしかなかったが、今やそれらが妙にリアルに杏の中で息づきはじめていた。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加