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ヤカーの女王
暖冬になるとの気象庁の長期予報を裏切って、二十四節気の大雪を過ぎたあたりから季節が一気に進んだ。陽が沈むのが早くなり、夕暮れの茜色はみるみる暗い赤から紫にかわり、真っ暗な夜の帳が急速にあたりを覆いはじめた。
秋田晴美は家路を急いでいた。
肩にかけた大きなカバンの中には今日の家事援助サービスで訪問した家から頂戴してきた古伊万里の皿とカップ麺が入っている。六十七歳になる晴美は一人暮らしだった。夫は五年前に早死にしている。生命保険にも入らず、貯えも少なかったのに末期癌で一年間の闘病生活の末に世を去ったから、晴美には財産とよべるものはほとんど何も残らなかった。今は年金とケアサービスでの収入が生活の糧となっている。家に帰ったらカバンのカップ麺を夕食にするつもりだった。六畳と四畳半二間のアパートに住んでいる。
趣味などなかったが、四畳半の部屋には仕事の余得にあずかった品々を並べていた。それが晴美のコレクションだった。いいかげんな性格だったが、収集物についてだけはノートに取得日と品名、出所をこまめに記している。まるでせっせと貯えた預金通帳を広げて、預金額が徐々に増えているのを確認するかのようにそのノートを眺めるのが晴美の唯一の楽しみだった。
北風が強まり、下降した気温とあいまって体感温度をさらに押し下げた。耳をかすめる北風の音が寒々しい。そのとき、晴美は誰かが自分の名を呼んだような気がして振り向いた。外灯もない細い私道が公道から枝分かれして十mほど入ったところだ。公道のアスファルトが外套を反射して白く耀いているが、自分が立ち止まった私道は逆に暗く黒いわだかまりの連鎖のようだった。左右を高いレンガ塀に囲われているのでいっそう陰鬱な感じがする。誰もいないことを確認し、気のせいかと思い直し歩き出す。
北風が晴美の頭を覆っている外套のフードをあおる。首もとの紐を締めてフードの先を深く額におろす。寒風に吹き曝されたら耳が痛くなるだろう。今日はそれほどに冷え込んでいる。フードをかぶっているせいで、外界の音が聞えにくかった。自分の呼吸音がフードの中で反響する。
再び、誰かが自分の名を呼んだような気がした。
立ち止まり、振り返る。
さっきと同じで真っ暗な道がまっすぐ伸びているだけだった。
背筋を寒気が走り抜けた。
それは、この冬一番の寒気によってもたらされたものではなかった。
頭のてっぺんからつま先まで、一本の神経が通っているように、ゾクゾクと鳥肌をともないながら寒気が走り抜ける。数日前も同じような体験をしている。あのときはケアセンターを出たときから家までずっと誰かが自分のあとを追いかけてきているような感じがした。
晴美は足早に家に向かう。
早く家に帰ってドアの鍵をかけて、明るい電気の下でほっとしたい。
いつのまにか、駆け足になっていた。
後ろが気になるのはなぜだろう。だが振り返る勇気はなかった。
(今日の私は少しおかしい)
部屋のある二階建てのアパートが見えてきた。
(もう少しだ)
晴美はアパートに近づいた。
バタン!
慌しく開錠し、部屋に飛び込むなりドアの鍵をかけた。息がきれている。なんであんなに嫌な感じがしたんだろう。部屋の電気をつけてテレビのスイッチも入れて、人工的な賑やかさの中に身を潜めるとさっきまで感じていた妙な不安感が薄れていった。
隣の四畳半の部屋の電気もつけた。
そこには、仕事のついでに訪問先の家から盗んできたいろいろなものが並んでいる。服はハンガーラックに、食器類はカラーボックスに、貴金属や腕時計はアクリル製の透明な収納ボックスに収めてある。カラーボックの上のペントレイには万円筆やブランドもののボールペンなどが並んでいる。ずらりと並んだ盗品を眺めるのが晴美のストレス発散法だった。窃盗の嫌疑をかけられて、家宅捜索されるなどとは微塵も考えていない。晴美の知性はそれほど高くはなかった。
隣の部屋のテレビから明日の天気予報が流れている。明日も寒いらしい。
(そうだ、明日は前に一人暮らしの口うるさい婆さんのところから頂戴したウサギの毛の黒い帽子をかぶっていこう)
去年まで訪問していた老婆のことを思い出した。ウサギの帽子はその家から持って帰ったものだ。自分が担当になってすぐに引っ越してしまったので、そこからの収集物はあまりない。確か一人息子のところに身を寄せることになったのではなかったか。口うるさい狷介な婆さんだった。歳のわりにはしっかりとしていて、晴美がものを盗んでいることに薄々気がついていたようだった。高齢になるとものがなくなっても気がつかない奴が多いのに。
晴美は明日のためにハンガーラックからファーの黒い帽子をとろうとした。
(あれ?)
かけてあったはずの帽子が見当たらない。服をカシャカシャとよせながら、帽子を探したがやはりなかった。
(変ね。確かにシルクのブラウスの横にかけていたはずなんだけど・・・)
晴美は、盗品を盗んできた家ごとにまとめるようにしていた。そうすると記憶が整理しやすくなり、そのときに感じたスリルと、してやったという満足感が鮮明に蘇り、幸せな気分に浸れるのだ。
(あれ?)
シルクのブラウスもなかった。
(どういうこと?)
記憶違いでないことを確認するために、カラーボックスの上の拾得物一覧ノートに手を伸ばした。
記憶をたどってノートを見る。時系列に並んでいるから探しやすい。
(あった!)
金釘流の文字で盗品の取得日と品名、出所が並んでいる。
「××年×月×日 黒いウサギの毛(たぶん)のファーの帽子 春日珠子」
「××年×月×日 シルクのブラウス(白) 春日珠子」
「××年×月×日 万年筆(もんぶらん?) 春日珠子」
「××年×月×日 洋食器(小皿) 春日珠子」
確かに、それらが存在することを晴美はノートで確認した。
ノートの端に目をやったとたん、晴美の目が大きく見開かれ、背中を鳥肌が走った。
「春日珠子」の文字の横に朱筆が添えられていた。
真っ赤なインクを使って「返却」と書いてあった。
もちろん、自分の字ではない。
誰かが、この部屋に入って春日珠子のものだった物品を盗んでいったのだ。いったい誰が?晴美は周囲を見回した。不意に室内の照度が落ちたような気がした。これまでの賑やかな明るさを振りまいていた照明が黒いベールに包まれてしまったような感じだった。それは晴美の錯覚にすぎなかったが、言いようのない不安と恐怖が彼女のからだを貫いていた。
インクと思った赤い色が、血の色のように見えてきた。まるでモンブランの万年筆をからだのどこかに突き刺しながら、血で書いたかのようだった。
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