ヤカーの女王

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ヤカーの女王

 ケアセンターの会議室で、ケアマネージャーの広畑康子は秋田晴美と面談をしていた。晴美が担当する家からのクレームを晴美に伝えるためだった。 「秋田さん、あなたの訪問先から物がなくなるというクレームがまた寄せられているの」  康子の顔にはほとほと困り果てたという表情が浮かんでいる。だが証拠がないから晴美を窃盗犯ときめつけることはできない。下手をすると晴美から名誉毀損で訴えられかねない。それに職員が契約先の家から頻繁に物を盗んでいるなどということが明るみになれば、厚生労働省から認可の取り消しをうけるかもしれない。康子はかなり苦しい立場に立っている。 「私は何もしていませんよ」  晴美はいつもと同じ言葉を繰り返した。 「私が何かを盗んだという証拠でもあるんですか?」 「いいえ」  ほら見なさいという顔を晴美はわざとしてやる。それを見て康子はますます困じ果てた顔になる。 (あんな安い給料でわがままな高齢者の世話をしてやるなんて、ボランティアみたいなもんだ。少しくらい役得があったっていいじゃないか)  晴美はそっぽを向いている。 (そもそも、私とあんたは一蓮托生なんだ。このケアセンターが認可を取り消されないためには、あんたは私をかばう必要があるんだからね) 「秋田さん、もうこれ以上、私はあなたをかばいきれないわ」  晴美の心を見透かしたのか、意を決したように康子は言った。 「それって、どういう意味ですか?今のって私が盗みを働いているみたいに聞こえるんですけど?」 「違うの?」 「広畑さん、かなり失礼ですよそれって。私がおとなしい性格だからいいけれども、そうじゃなかったら大変なことになっちゃうからね」 「当センターはこれ以上、あなたを雇用し続けることができないと考えているの」 「あら?契約期間はまだ終わってないように思うんだけど。契約期間中の解雇ってことかしら」  労働者の権利を守るほうが、経営側の権利を守るよりも手厚いことを晴美は知っている。解雇に関して労働者が雇用者に対してするべき主張は、ネット情報の中に満ち溢れている。 「こんなものが送られてきました」  康子がテーブルの上に帽子を置いた。 「え?」  それは先日、自宅から盗まれたウサギの毛の黒い帽子だった。 「それからこれも」  康子がテーブルの上に、ブラウスと洋食器を並べた。 「ど、どうしてこれが?」 「私宛に箱に入れられ、送り届けられたのよ」  晴美の顔が蒼ざめた。 「箱の中にはこんなものも入っていました」  康子がテーブルの上に出したのは便箋だった。そこには数行の赤い文字が並んでいた。 ―― 秋田晴美の家から盗まれた私のものが出てきました。 珠子 ――>  便箋に書かれた文字がひときわ大きく晴美の目には映った。 「ここにある『珠子』って、あなたが担当していた春日珠子さんのことでしょ」  晴美の唇が震え始めた。 「春日さんは、何度も何度も、私にあなたが来ると物が無くなると訴えていた。私は証拠がないからとその言葉をいつもはねつけていた。でも、そのようにクレームを入れてきたのは春日さんだけじゃなかったのはあなたもご承知のとおりのことよね」 「これは・・・いったい・・・」 「春日さんには悪いことをしたと私は今では後悔している。別のケアセンターにしたらどうだとまで言ってしまったわ」  晴美は手紙に書かれていることを否定した。 「でも、これって送りつけてきた人が勝手にそう言っているだけじゃないですか。私の家から出てきたなんて嘘っぱちにきまってるわ!それにこれがその・・・珠子さんて人のものかどうかもわからないじゃない!」  康子は晴美の目を見つめながら静かに言った。 「そうね、そうかもしれない。でもね、私がこれを警察に持ち込んで、指紋をとってもらったりしたらどうかしら?これにあなたの指紋がついていたりしたら・・・秋田さん、そのときは何て言い訳をするの?」 「私は・・・違います。人のものを盗んだりはしていません・・・」 「わかりました。それがあなたの答えね」  康子がテーブルの上の品を片付けた。 「職員が誰もいないときを選んであなたと話をしたかったの」  ケアセンター内には康子と晴美しかいなかった。すでに就業時間は終わっている。陽はとっくに沈んでセンターの窓から見える外は真っ暗だった。 (そういえば・・・万年筆がなかったわね)  晴美はさっき康子が並べた物品の中に万年筆がなかったことを思い出した。  そのとき、急に照明が消えた。  室内が真っ暗になった。  窓の外にある街灯の明かりがガラス越しに室内を淡く照らし出した。 「何?停電?」  康子が叫んで立ち上がったが、外灯はついているし、近所の建物からもれる明かりも消えてはいなかった。 「ここだけ電気が消えたの?ブレーカーが落ちたのかしら」  周囲を見回し、外から入ってくる明かりを頼りに康子が入口脇の照明スイッチにとりついた。カチカチとスイッチを操作したが、室内の照明は元に戻らない。 「分電盤を見なきゃいけないの?」  ドアを開けて外に出ようとした康子が「ひっ!」と短く一言叫んだ。 「広畑さん?」  晴美がドアを開けたまま立ち尽くしている康子に声をかけた。  返事はなかった。  何かよからぬことが起こっている。晴美の背筋を冷たいものが走り抜けた。恐る恐る康子に近づき、肩に手をかけた。 「広畑さん?マネージャー?」  康子が晴美に向かって振り向いた。  眼球が裏返っている。 「ひゃっ!ひいいいい!」  康子の額から万年筆が生えていた。  深々と頭蓋を貫いて脳にまで達するほど思いきり突き刺されたのだ。  それは晴美が春日珠子の家から盗み出したモンブランの万年筆だった。  康子があおむけに倒れた。大きな音をたてて床に横たわる。康子の向こうに屈みこむように身を丸めている者がいた。晴美の目が吸い寄せられるようにそのシルエットを凝視する。うつむいていたそいつがゆっくりと顔を上げた。目をそらしたいのに視線が凝固したようにそのものにへばりついている。  そのものがゆっくりと顔を上げた。 「ひやあああああ!」  喉が張り裂けるかと思うほどの声を発して、晴美はからだを硬直させた。  そこにいたのは春日珠子だった。 「か・・・春日・・・さん?」  「返してもらったよ」  珠子の唇がかすかに動いた。  唇がにいっと左右に広がった。 「やっぱり、あんたが盗んでいったんだねぇえ」  珠子の不気味な笑みがどんどん広がってゆく。やがて左右の口の端が切れはじめた。皮膚がぴりぴりと裂け、網目状になってゆく。網目の隙間から血の玉がぽつりぽつりと浮かびはじめた。  目の前にいる珠子は数年前に晴美が訪問していた頃の珠子ではなかった。  人であって人でない存在。  晴美の本能が晴美の意識にそう伝えている。  逃げなければ。  逃げなくちゃ。  逃げるのよ。  だが、足が動かない。手も動かせない。晴美の脳が発する命令を運動機関である手足が無視している。  珠子の口が耳元まで大きく裂けた。左右の犬歯がもぞもぞと動いて伸びている。すぐにそれは歯ではなく牙にかわっていた。珠子の頭に角が生えていた。そこにいるのはもはや珠子ではなかった。珠子に似た異形のもの。夜叉だった。  夜叉がゆっくりと立ち上がり、晴美に近づいてきた。晴美は金縛りにあったようにからだを動かすことができない。  夜叉が晴美の前までやってきた。
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