ヤカーの女王

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ヤカーの女王

 S市のケアセンターでセンターのケアマネージャー広畑康子とヘルパーの秋田晴美の死体が発見されたニュースは全国区で報じられた。  発見されたとき、二人の死体はかなり損壊していた。捜査関係者の中にはその凄惨な現場を見て、嘔吐するものもあったほどだ。鑑識が死因を特定できないほど死体は原形をとどめていなかった。 「まるで、熊に襲われて生きたまま喰われたようだ」  北海道出身の刑事がいて、現場を見たとたんそう呟いた。  猟奇殺人事件として、テレビは朝から晩までそのニュースを流し続けた。春日家の皆もそのニュースを見飽きるほど見ていたが、事件の現場となったケアセンターがかつて珠子が一人暮らしをしていたときに利用していた施設だとは、誰も知らなかったからニュースは興味本位の対象としかうけとめられなかった。  同じニュースを見ていた結城恭一にとってもそれは同じことだった。  今日は恭一にとって大事な一日となるはずだった。公園の出張販売で知り合った谷加奈子の家に行く約束をしているのだ。加奈子と恭一はすでに男女の仲になっていた。何度も会って花の話をしているうちに互いに心を許しあい一線を越えてしまったというわけだ。積極的に関係を深めようとしたのは加奈子の方だった。妻子のある恭一は慎重に加奈子と接していたが結局、男の欲望が理性をおさえこんでしまった。初めて会ったときの少女っぽい印象はベッドの上の加奈子にはなかった。一回りは年上の恭一が、奔放な加奈子の性技に翻弄されることが多かった。  二人は週に一回は逢瀬を重ね、すでに互いのからだが馴染むようになっていた。房事の場所は恭一が花を納めているホテルの宿泊券を使うのが常だったが、たまにはファッションホテルも利用した。 「恭一さん、私やばい」  恭一の胸に顔を埋めて加奈子はつぶやいた。 「何が?」 「離れられなくなりそう」  恭一の胸が高鳴った。しかし恭一には妻子がある。ことを面倒にしたくなかった。歳が離れているから互いに割り切った関係でいられると思っていたが、想像以上に加奈子が恭一にのめりこみ始めていた。 (まさか、妻と別れてくれとは言わないだろうが・・・)  それが恭一の不安の種である。しかしこの歳になってもう一度手に入れた陶酔のひとときは簡単には手放せない。 「青いバラを見にウチに来ない?」  前回、ホテルで一時の歓をむさぼったあと、白く柔らかい手をそえて恭一に胸に与えながら加奈子が誘った。今まで加奈子の家に行ったことはなかった。また一歩、深みにはまる気がしたが、乱れて額にかかったショートヘアの髪に手をやりながら恭一は無言で頷いた。思わず喉が鳴ってしまったが、その音を聞いた加奈子は艶然と笑ってくれた。 「今日は、納入先のフラワーデザイナーの個展の打ち合わせがあるから遅くなるだろう。先に寝ていていいぞ」  店をまかせる妻にそう言い残して、恭一は店を出た。  加奈子が書いてくれた地図を頼りに高台にあるというマンションを目指した。招待された時刻は夕間暮れだった。逢魔が時ともいう。いつのまにか住宅街をはずれ、周囲を竹林に囲まれた静かな一画に足を踏み入れていた。舗装もされていない砂利道が続いている。月が出ていた。鎌のように鋭く、銀色に耀く三日月だった。わずかな月明かりが細い道を白々と濡らしている。吐く息が白くゆっくりと虚空に広がってゆく。  どれほど歩いただろうか、時間の感覚を失いつつある恭一の前に黒々としたマンションが現れた。  四階建てくらいの低層マンションだった。何部屋あるのかはわからないが、部屋の明かりが漏れている窓はひとつしかなかった。 (あれが久美子の家なのだろう)  すでに期待で鼓動が高まっている。恭一は自制心を失いつつあった。脳裏に若く、奔放な久美子の肢体が踊っている。  気がついたら、恭一は一糸まとわぬ久美子とベッドの中にいた。 「恭一さん?」 「何だい?」 「バラを見てもらえる?」 「ああ、どこにあるんだい」 「そこ」  ぽつりと言って久美子は部屋の隅を指差した。すると今までなぜ気がつかなかったのかわからないほど、鮮やかに咲き誇る青いバラがそこにあった。 「すごいね。クミちゃん、君には園芸の才がある」  恭一は久美子のことをクミちゃんと呼ぶようになっていた。 「本当?」 「本当だとも。あの青バラは育てるのが非常に難しいんだ」 「そう・・・」  久美子がベッドから出てバラに近づいた。美しいからだのシルエットが燐光をはなっているようだった。恭一に背中をむけたまま、久美子が青味がかった藤色の花冠をひとつもぎとった。 「私の花だからね」  久美子が言った。その言葉が平板なものになっていた。 「え?」 「おまえは私の花を盗んだ」  背中をむけたまま久美子は言った。声から若々しさが失われている。 「このバラはもともと私のものだった。おまえが家から持ち出して金に変えた」 「クミちゃん、何を言っているんだい?」 「エビネはどうした?」  恭一は不安を感じはじめていた。久美子の声が変声しているのもおかしかったが、久美子の言っていることが恭一には思い当たるふしがあったからだ。だが、なぜ久美子がそんなことを知っているのか、そしてそれを指摘するのかがわからない。 「エビネ?」 「とぼけるでない。おまえは私のエビネを貸してくれと言ったまま返しに来なかった」 「それは・・・」  頭が混乱し始めていた。久美子は春日家とは何の関係もないはずだ。なぜ、春日珠子のような口のききかたをするのだ。 「クミちゃん?」  久美子が振りむいた。しかし、そこに久美子の顔はなかった。見たこともない女の顔が裸の久美子のからだの首から上にのっかっていた。いや、その顔は人間のものではなかった。額の両脇から何かが飛び出している。角だった。前頭骨が前にせり出し、落ち窪んだ眼窩をひさしのように覆っている。眼窩の奥の眼球が今にも飛び出しそうだ。左右の口角が異様につり上がり、口の端から牙がのぞいていた。 「ひっ!」  恭一のからだが硬直した。唇がわなわなと震え出した。恭一は一瞬、久美子が能の般若の面を被ってふざけているのかと思った。だが、目玉がぎょろりと動き、耳まで裂けた口が呪いの言葉を吐き出すのを見て、それがこの世のものではない異形の存在であることを確信した。目の前にいるのはあのコケティッシュな久美子ではなかった。それは夜叉だった。  夜叉の顔が瞬間的に久美子に入れ替わる。そして珠子の顔が現われる。再び珠子が夜叉になった。  夜叉が咆哮した。
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