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ヤカーの女王
待ち合わせの場所は会社から最寄の駅に向かう途中にあるカフェだった。直人は店に入りコーヒーを注文した。約束の時間には十五分ほどある。少し早くつきすぎたようだ。もっとも相手の顔がわからないから直人はただ待っていることしかできない。珠子のことに関して話をしたいと、見ず知らずの男から自宅に電話が入ったのは日曜日だった。そのとき、これは断るわけにはいかないと直人は直感的にそう思った。だが、家に素性もわからない男を上げるわけにはいかないから、ウイークデーの帰宅途中に会うことにしたのだ。男は村松文雄(むらまつふみお)と名乗った。仕事はフリーライターということだった。どのような話ですかと聞いたが、それは会ったときに話すといわれ、直人はもやもやした気分で今日のこの日を待っていた。
「春日直人さんですか」
テーブルのむこう側に紺色のダッフルコートを着た四十歳後半ぐらいの男が立っていた。肩からバッグをぶら下げている。
「そうですが、あなたが村松文雄さん?」
「はじめまして」
村松が手を差し出した。直人はその手を握った。
「座っても宜しいでしょうか」
村松は律儀な性格なのかもしれない。礼儀正しく直人に聞いた。左手にはコーヒーカップの載ったトレーがある。
「どうぞ、おかけください」
直人は向かいの席にむかって手をさしのべた。「失礼します」と言って村松がコートを脱いで腰を下ろす。
「電話で自己紹介をしたとおり、フリーのライターをしています。お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます。」
直人が頷いた。早く本題に入ってくれというつもりで社交辞令は省いた。
「実は私、スリランカの民俗や伝承をものしていまして・・・」
「スリランカ?」
それが東南アジアのどこかにある国の名だということはわかるが、地図上のどこにあるのかまでは直人にはわからなかった。
「旧国名はセイロンです。インドの先端部の東側、ベンガル湾に浮かぶ島国です。国土全体がランカー島とも呼ばれています。」
「セイロンって、紅茶が有名なところでしたっけ?」
わずかばかりの、トリビアとも言えぬ一般常識をなんとか思い出して直人は言った。
「ええ、リプトンとかブルックボンドなどの茶園が高地に広がっています」
「紅茶ということは、イギリスの植民地だったということですか」
「十六世紀からポルトガル、オランダ、イギリスの順で植民地支配をうけていました」
「第二次大戦中は、日本もですか」
「いいえ、日本はセイロンを植民地化していません。できなかったというのが正確なところですが。日本軍はビルマで精一杯だったのですよ」
「なるほど」
珠子のことで話があるということだったが、話柄がまったく関係のない方向にそれていた。
「それから一大仏教国でもあります」
「はあ・・・」
「スリランカの『パーリー仏典』では、隣国のインドに対する反感もあるのでしょうが、ヒンドゥ教の神を悪霊として恐れています」
「そうなんですか・・・」それが自分の母親とどういう関係があるのかと聞こうとした直人が口を開くよりも早く、村松は直人に聞き覚えのある名を口にした。
「その悪鬼は夜叉の王と呼ばれています。名を『ヤカー』といいます」
「『ヤカー』?」
「『サンニ・ヤカーともいいます」
直人の脳裏に姥山脳神経研究所の邪禍の名が浮かんだ。
「春日さん、あなたは最近、ヤカーという名の人と会っていますね」
「なんでそれを?」
「私の取材対象だからです。姥山脳神経研究所所長の邪禍倶満拏。ご存知ですね」
直人は細かく縦に何度も首を振った。
「なぜ、あなたは邪禍先生のことを取材しているのですか」
村松は隣の椅子に置いてあった肩掛けカバンからスクラップブックを取り出し、直人の前で広げ、パラパラとページをめくってみせた。そこには新聞の切り抜きが何ページにも渡って貼り付けられていた。
「これは?」
「私が取材を始めるきっかけとなった記事です」
そこには家が全焼し、一家全員が焼死体で発見されたという記事があった。残された焼死体はかなり損壊しており、焼死する前になんらかの危害を加えられ、それが死因だったとも書かれていた。
「これもそうです」
村松がスクラップブックをめくり、次の記事を見せた。同じような事件が取り上げられていた。
「これも」
さらにページをめくる。同じような惨劇の記事。
「これも」
「これも」
「これもです」
村松のスクラップブックには時と場所を違えてはいるが、酷似した事件の記事が並んでいた。
「この記事と・・・姥山脳神経研究所が、どうつながるんですか?」
「私の独自取材でわかったことなんですが、これらの事件の被害者は皆、近親者を姥山脳神経研究所に預けているんです」
「それは・・・」
直人は言葉に詰まった。
「そして病院が入院患者の病状が改善され、一時退院を許したと言った日の前後で事件が起こっています。六件のうち三件では焼け跡から患者の遺体も発見されています。患者の遺体は焼け焦げてはいましたが、他の遺体のように損壊はしていませんでした。警察はその患者の犯行だと結論づけようとしましたが、結局のところよくわかなず仕舞いというのが現状です」
村松はスクラップブックを見やすいように、直人にむけて差し出した。それを手にしてはみたが、貼り付けられた新聞記事が頭に入ってこない。
「おわかりですか?あの研究所に入院された方のご家族は皆、お亡くなりになっています」
「あなたのおっしゃることはわかりました。ですが・・・そんなこと・・・なぜ?」
「あの研究所は第二次大戦後すぐに開所しました」
「・・・ということは・・・すでに八十年近くにもなるのですか、創始者は邪禍先生の父上ですかね」
「わかりません。手がかりがないんです。それに邪禍の医師免許は一九四六年の第一回医師国家試験以降に与えられたものではないようです」
「え?どういうことですか」
「邪禍が戦前からの医者だったということです」
「確かに、あの人は年齢不詳ですけれども・・・いくらなんでもそんなに高齢のはずはないと思います」
「そうですよね。ちなみに春日さん、あなたはどこで邪禍と会われましたか」
「初めて入ったバーでした」
「それはどこにありましたか」
「この近くだと思います。会社からの帰り道で、最寄り駅に行く前に立ち寄りましたから」
「店を出ましょう。そのバーの場所を教えてください」
カフェを出た二人は、直人の先導で周囲の路地を覗いて回った。だが、直人が邪禍と出合ったバーは見つからなかった。
「おかしいなあ、確かこの辺だったはずなんだけど・・・」
首をひねる直人に村松が店の名を覚えているかと尋ねた。
「ああ、そういえば印象深い名前でした。ええと、地獄のような・・・ホラー系のネーミングの酒を出されて・・・そうだ!『冥途バー』だ」
村松がスマホをたたいて、店の検索をしたが「冥途バー」は出てこなかった。店はあの日、霧の中に吸い込まれるように消えていった邪禍と同じく直人の前から永遠に姿を消してしまったようだった。
「春日さん、どこか酒を飲める店に入りましょう。こみいった話をする必要がありそうなので」
直人も同感だった。二人はそばにあった居酒屋ののれんをくぐった。
「はい!ビールお待ち!」
テーブルの上にビールジョッキが二つ並んだ。どちらからともなく「それじゃあ」と言ってグラスを持ち上げ乾杯をした。口のまわりの泡をなめて村松が言った。
「セイロン沖海戦というのをご存知ですか?」
「いいえ、私は戦史には詳しくありません」
「一九四二年に当時、植民地支配をしていたイギリス軍をセイロン島から追い出す目的で行われた戦闘です」
「勝ったんですか?」
「ええ。コロンボともう一つの港を空襲し、空母からの航空隊がイギリスの空母と駆逐艦を沈めました。イギリス軍はセイロン島から撤退せざるをえませんでした」
「その戦いが邪禍と何か関係するんですか」
「セイロン沖海戦で勝利した日本海軍が本国へ帰投する際、漂流船に遭遇したんです」
村松がビールジョッキを傾けた。
「漁船でしたが、船員は皆、疫病で死んでいて生き残りの一人だけが駆逐艦に収容されました」
「助かったんですか」
「いいえ、その漁民もすぐに死んでしまいました。その後、駆逐艦内で変死者が次々と発生したんです。当時の駆逐艦はとても小さいですから設備も整っていません。そこで発病した兵を空母に移し、そこで治療することになりました。ですが、その空母でも正体不明の病気が蔓延して帰国するまでに三十人の兵が海に流されました」
「伝染病だったのでしょうか」
「治療にあたった軍医はマラリアだったと報告しています」
「南方では多かったそうですね。マラリアによる病死が」
「ええ。ですが私はその軍医の報告は嘘だったのではないかと思っています」
「どうして?」
「横須賀に帰港した空母から降りた軍医の消息が絶たれてしまったんです。そして軍医の家で家族全員の変死体が発見されました」
「それは・・・」
「そう。さっきご覧になった新聞記事のような事件だったんです」
村松はぐいと体を乗り出して直人との距離をつめた。直人の目を見つめながら言った。
「私はセイロンの悪鬼『ヤカー』が日本にやってきたんじゃないかと思っているんです」
「それは・・・『ヤカー』が軍医にとりついたということですか?・・・あなたはそのオカルト話を本気で信じている?」
村松は黙って頷いた。
「春日さん、とても信じられない話だとは思います。ですが邪禍がかかわった患者の家はすべて、例外なく一家全員が死んでいるんです。そのことは間違いない」
ぐびりと直人は唾を飲み込んだ。
「ですから、春日さん、私はあなたのご家族が邪禍に目をつけられたのだと思っています」
「母の珠子が・・・」
邪禍の意味不明な言葉が思い浮かんだ。研究、検体、珍しい因子、そして・・・
「タニカマ」
直人が邪禍の言葉を呟いた。覚えているはずのない言葉だったが、今、自然に直人の頭に浮かんできた。
「タニカマ?」
村松が直人の言葉に即座に反応した。
「春日さん、今『タニカマ』と言いました?」
「ええ、邪禍先生が母のことを、そのように・・・何か意味があるのでしょうか」
「『タニカマ』とは孤独という意味です。それも真の孤独。心に闇を持つような孤独です」
「母が孤独であると、確かに言っていました。だからこそ邪禍先生にとっては貴重な検体だというようなことも」
「悪鬼は『心の寂しいタニカマな人間にとりつく』と言われています」
初対面の村松の話を半信半疑で聞いていた直人だった。荒唐無稽だと思ったし、どこまでが事実でどこからが村松の妄想か判別がつかなかった。だが、直人は軽い恐怖を感じていることを認めざるをえなかった。
店内の壁に木彫りの壁掛けマスクがかかっていた。
それは店の雰囲気にそぐわない異様な存在感を放っていた。天然木を使用しているらしい重厚な造りの怪鳥の顔がくちばしをあけて鋭い歯をむき出しにしている。左右の耳が鋭い三角形をして広がり、目玉がらんらんと見開かれていた。冠をかぶったその怪鳥の名は、ガルーダと呼ばれていた。
インドでは聖鳥として崇められている。
だがスリランカではグルルと呼ばれる魔物として忌み嫌われていた。天井近くの壁にかけられたマスクの目玉がぎょろりと動いたように思えた。目玉が左右上下に動き、とうとう探し物を見つけたかのように直人と話している村松の背中を睨みつけた。くちばしがカッと大きく開き、奥から長い舌が飛び出しひらひらと舞った。 直人も村松もそれに気づいていない。
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