ヤカーの女王

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ヤカーの女王

「すいません、お待たせしてしまって」  約束の時間に十分ほど遅れて村松がカフェに現れた。直人は立ち上がって挨拶をした。 「こちらこそ、急なお呼び出しをして申し訳ありません。ご迷惑ではなかったでしょうか」 「まったく。私も春日さんと会いたいと思っていたところです」 「それは・・・その・・・S市と私の住んでいる町で起こった事件のせいですか」 「はい」  村松が先般、直人に披露したスクラップブックを取り出した。そのときに直人が見た最後のページに貼られていた新聞記事は二年前のものだったが、それが更新されていた。直人が口にした事件の記事が新しく追加されていたのだ。 「やはり、村松さんはあの事件が邪禍の引き起こしたものだと思われているのですね」 「邪禍が引き起こしたという意味ではそのとおりですが、実行犯・・・犯人と言うのはちょっと語弊がありますが、その点では邪禍が直接手を下したものではないでしょうね」 「ええ・・・あれは・・・きっと・・・」 「春日さん、私の話を信じていただけるのですね」 「まだ迷ってはいますが、いろいろなことから・・・その可能性が高いと思い始めました。あれは・・・」  直人は思っていることを口にできなかった。口にしてしまえば、その禍々しい予感が現実のものになってしまうような気がしていたからだが、自分がそれを認めようと、認めまいとすでに凶事は進行しているのだと、理解もしていた。そしてその凶事のたどりつく先は、家族にふりかかってくる禍だということも。 「私の母が、この世のものではなくなってしまったということですよね」  いまだに信じがたいことではあったが、直人は村松から何らかの確証が得られないものだろうかと思いながら聞いた。一語一語、苦いものを吐き出すように口にした直人を村松は傷ましそうに見つめ、しばらくの後、静かにうなずいた。 「たぶん。ですが私はそれをあなたに確信させるだけの証拠を持ち合わせてはいません」 「でも・・・あれは、夜叉になってしまった母の仕業だと思っている?」 「春日さん、今回の夜叉はかつてないほど荒々しい奴です」 「母は・・・狷介な性格でした」  テーブルの上のコーヒーが冷めていた。直人はかなり前からカフェで村松を待っていたのだ。湯気が立たないコーヒーの表面を見つめながら直人が言葉を搾り出した。 「人の好き嫌いが激しくて、好き嫌いっていっても好きになる人なんていませんでした。嫌いな人ばかりです。他人のちょっとしたささいな行為でも強く非難する性格で、自分以外のすべての人を憎悪していました」 「悪鬼、夜叉の王、サンニ・ヤカーには十八匹の夜叉、ヤカーが従っています」 「邪禍がサンニ・ヤカーなのですよね」 「ええ。そして邪禍は現世に十八匹の手下を蘇らせようとしているのだと思います」 「それは人間を化け物にしてしまうということですか。そして母もその一匹になった?」 「簡単なことではないと思います。恐らく、夜叉になるために必要な、なんらかの形質を備えている人間を選び出しているのでしょう」 「母はその形質を備えていたから・・・選ばれた」  邪禍の言葉を思い出しながら直人は村松の言を首肯した。 ―― あなたのお母さんは今まで私が診てきた誰よりも素晴らしい検体です。それがはっきりしました ―― ―― あなたのお母さんがお持ちの因子は非常に珍しいものです ―― 「ケアセンターと花屋と、お母さんは生前、接点があったのですね」  村松が『生前』という言葉を使ってくれたことに直人は感謝した。 「ええ、どちらもいい思い出にはつながらない関係だったようです」 「これをご覧ください」  松村は「魑魅魍魎・悪鬼・妖異辞典」と書かれた本を広げた。指し示したのはスリランカの夜叉の説明で、ハンニ・ヤカーの手下の十八匹の夜叉の名が連なっていた。 「昔、お母さんだった夜叉はおそらくこれだと思います」  そう言って松村は「アブータ・サンニヤ」という夜叉の名をあげた。 「アブータは『狂気』を担う夜叉です。ほかにも、耳の疾患や伝染病、失明、譫妄(せんもう)、皮膚病などを担う夜叉がいますが、凄惨な現場に残された荒々しさ、被害者の広がりなどから見て、アブータがお母さんの体を支配したと考えていいのではないかと思います」  直人には『アブータ』という言葉に聞き覚えがあった。 (なんだっけか?)  最近、聞いた言葉に違いない。必死になって思い出そうとした。 (あっ!)  邪禍の研究所に行ったとき、杏が所内を探訪していたら気味の悪い三人の看護師に会ったと言っていた。そのときそいつらが『あぶたのたまこ』という言葉を口にしたと杏が言っていたのだ。直人はそのことを村松に話した。 「どうやら、偶然にしてはいろいろなことが一本の糸で繋がりすぎていますね」 「憑依されたということですか。母は、その夜叉に」 「邪禍の魔術によって」 「それを祓うことができるのでしょうか」 「実は『パーリー仏典』は悪魔祓いの方法についてこれという決定的な手段を明示していないのです。スリランカでは夜叉を祭ることでお祓いができると考えており、つまり盛大に歌って踊って華麗な衣装に身を包むことで夜叉がもたらす災禍を取り除こうとしているのです」 「それって・・・」 「ええ、現在、我々が直面している問題の直接的な解決策にはならないと思います」 「つまり?」 「物理的な対抗手段で戦うしかないのかもしれません」  直人はため息をついた。あるいは村松が特別なエクソシストを紹介してくれるのではないかという淡い期待があったのだが、そんなものはないということがこれで判明した。 「春日さん、アブータが次に襲う可能性のある人について心当たりはありますか」 「いや、私も母のことをすべて知っているわけではありません。ですから私の知らないところで母の・・・いえ、アブータの目標になっている人がいたとしても、ちょっと思いつきません」 「そうですか」 「前にお伺いしましたが、邪禍によって夜叉にされた患者の家はすべて・・・」 「一家皆殺しになっています」 「じゃあ、我が家こそが次の標的の可能性が高いということになりますよね。妻も娘も母とは折り合いが悪かった。特に妻に対しては母は強い敵愾心を持っていました」 「対策を急がなければなりませんね」 「でも、対策と言ったって・・・何をやればいいのか、何に頼ればいいのか」  こうしている間にも家を珠子が襲っているかもしれない。直人はアブータという夜叉の名前を使う気にはなれなかった。自分が対峙する夜叉は珠子だと思っていた。 「春日さん、実は今日、あなたに会っていただきたい人がいるんです。待ち合わせの時間に遅れたのはその人と打ち合わせをしていたからで、この近くに待機してもらっているのでよろしければ、すぐにお引き合わせできますが、いかがでしょうか」 「その人は?」 「刑事さんです。私が邪禍を追っている過程で知り合いになり、情報交換をするようになった人です」 「警察が動いているんですか?」 「それはそうでしょう。猟奇殺人事件ですからね。被害者が皆、姥山脳神経研究所に入院していた患者の関係者だということは警察にとっては周知の事実です。邪禍は捜査線上の最も重要な参考人です」 「でも、逮捕はされなかった?」 「証拠が何もありません。邪禍が法を犯したと信じるに足るいかなる物証も傍証もないのです」 「では・・・」 「その刑事さんは山室茂(やまむろしげる)といいます。私とは十二年来のつきあいになります。山室さんとは十二年前の三つ目の事件のときに知り合いました。そのとき事件が発生した町の管轄警察署の刑事だったんです」 「そんなに長い間、邪禍を追っていたんですね」 「邪禍によって夜叉となった人間の数もある程度わかっています。今まで邪禍が復活させた夜叉の数はおそらく今回を入れて七匹。そのうち三匹は現場で焼け死んでいます。私がスクラップを始めて把握している最初の事件は三十年前になります。おそらくそれ以前にも邪禍は夜叉を復活させているかもしれませんが、はっきりとしたことはわかりません。ですから夜叉の数はわかっているだけで四匹はいるということにしておきましょう」  言いながら、村松はスマホを手にして発信した。  すぐにカフェの自動ドアが開き、ジャンパーを着た地味な五十代の男が現れた。 「紹介します。こちら××警察署の山室さん、こちらはさっきお話した春日直人さんです」  村松が直人と山室を引き合わせた。 「はじめまして」  直人が手を差し出すと、山室がその手を握りかえした。力強い握手になった。  山室は特徴のない顔をしていた。町で、駅のホームでいつでも、どこでも見かけるような普通の顔。会っても分かれたとたん、どんな顔だったか思い出しづらい顔だった。きっとこのての仕事にはうってつけの顔かもしれないと直人は思った。 「今日は非番でね」  山室が言った。 「村松さん、山室さんにはどこまで私のことを」 「ほぼすべて話してあります」 「では・・・あなたは村松さんの言っているスリランカの悪鬼について本当に存在すると思われているんですか」  山室はさすがに照れくさそうに頭をかきながら頷いた。 「荒唐無稽な話でとてもリアリティがあるとは思えないがね。俺は信じることにした。というか信じる以外に話のつじつまをあわせることが俺にはできなかったんだ。ま、藁にもすがるってところかな、ぶっちゃけて言えば」  村松が苦笑する。 「警察はどこまでこの話を受け入れているんですか?」  もしかしたら、警察が家族を守ってくれるかもしれないと直人はすがるような思いで山室に質問した。 「まったく信じていないよ」 「それは・・・そうですよね」 「殺人事件だから、犯人逮捕にむけてやっきになってはいる。だけど組織として非科学的なオカルティズムをベースに捜査をすすめることなんかできないし、そんなことを主張しても上の連中から『おまえ、頭は大丈夫か?』って言われるのがオチだ」 「だから、非番の日にここに来てもらったんですよ」  村松が直人の落胆ぶりに同情しつつも事実はこんなもんだという顔で言葉を添えた。 「だから、俺があんたの身を守ってやることはできない。ま、休みのときに監視はしようと思ってるけどな。そこでこいつの言う、夜叉って化け物が現れてくれたらでっけー手柄になると期待はしているがね」  山室は村松のことをこいつと呼んだ。 「そうですか。それでもありがたい話です」 「それで、あんたのお袋さんだけど、顔写真とかある?」 「いえ、今は持ち合わせていませんが、家にあります」 「じゃあ、こいつに預けといてよ。今日は、お袋さんの性格とか癖とかいろいろな話を聞かせてもらえないかな」 「ええ、なんでも聞いてください」 「そのあと、あんたの家に行こう」 「え?」  家族にはまだこの話を伏せている直人が、山室が暴露してしまうのではないかと警戒の色を見せた。その直人を安心させるように刑事は言った。 「夜叉が襲ってくるかもしれないんだろう。どこから侵入されやすそうだとか、どこを重点的に守ればいいかとか、危なそうな場所はどこかとか、現地に行かないとわからないからな。それを確認するためだよ。あんたの家族と顔をあわせるつもりはない」 「なるほど。わかりました。宜しくお願いいたします。まだ家族には何も話していないんで・・・」 「それでいい。もうしばらくは黙っておきな。だが、どこかで話さなきゃならんだろうが」 「それを見計らうのが、難しいんです」 「そのとおりだ」
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