ヤカーの女王

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ヤカーの女王

「姥山脳神経研究所に人をやりましたが、春日珠子さんは病床にいらっしゃいました」  刑事が二人、直人の前に座っていた。場所は警察署の会議室。家の前で惨殺されていた警察官の仇をとらんとばかりに管轄署の警官が大量に投入されていた。直人の言に従って、姥山脳神経研究所に向かった刑事は所長の邪禍から話を聞き、病床で横になっている珠子を確認してきた。からだが不自由なのと、アルツハイマー型認知症のために徘徊の可能性があるとのことで、夜は拘束されているとの邪禍の話の裏づけもとれていた。  直人は無駄なことだと思い、何も語らなかったが、妻と娘と息子はそれぞれ悪魔とか鬼とか夜叉という言葉を口にした。その証言は猟奇殺人事件を目撃して動転した証人の言葉と受け止められ、そのように処理された。  家の周囲の雨戸がへこみ、一階の屋根の雨どいが破損し、屋根がへこんでいるのが確認された。その前にある雨戸も損傷しており、何者かが春日邸に侵入を試みたということは明かだったが、警察にはその目的が皆目わからなかった。公道に置かれた監視カメラは怪しい人影をとらえていなかった。 「春日さん、誰かから強い恨みをかうような覚えはありませんか?」  月並みだが、警察もそう聞くしかないだろう。直人の返答もありきたりなものにならざるをえない 「皆目見当がつきません」  スリランカの悪鬼の王「サンニ・ヤカー」が第二次大戦中に空母赤城の軍医にとりついて、はるばる日本に渡ってきた。爾来、日本で夜叉を呼び出し、せっせと人喰いをさせているなんて話をしたら、直人が姥山脳神経研究所に入れられてしまうかもしれない。  警察は町内で発生した園芸家殺人事件との関連性を疑って捜査を進めているようだったが、邪禍の根城が捜査対象から外れている限り、事件解決のめどはたたないだろう。  春日家は警察の監視対象となり、常に警官が目を光らせるようになっていた。 「息が詰まるわね」  郁美が直人にため息まじりの不満を漏らした。すでに珠子襲撃の夜の衝撃からは立ち直っていた。しかし、常に何かに怯えるように落ち着きなくあたりを見回す癖が身についてしまった。 「俺の話を信じてくれる気にはなったか?」  こくりと郁美の首が縦に振られる。 「子供たちが心配だわ。特に杏が」  自分と娘が珠子とそりが合わなかったことを気にしているのだ。狙われるとしたらいの一番が自分で、次が杏だろうと思っているらしい。直人もそんな気がしていた。 「家を空けようか」  かねて計画していたホテルへの避難を含めて、直人は転居先を探していた。 「子供たちの学校が・・・」 「だが、命あってのものだねだから」  そうね、と郁美が小さな声で同意を表明した。  室内にはシタールの音が満ちていた。シタールはインドの弦楽器だ。インド料理屋の個室に直人と村松はいた。ほどよい音量のBGMが、直人と村松の会話を途中、サーブにやってくる店員の耳から遠ざけている。 「村松さん、この間は本当にありがとうございました。おかげさまで命拾いをしました」 「危ないところでしたね。まさに危機一髪だった」  夜叉と化した珠子に自宅を襲われたとき、村松が差し伸べてくれた援助の手に対して直人が感謝の気持ちを表すために今日、一席を設けたのだ。 「どんどん召し上がってください。ここの料理は美味しいんです」 「今はホテル暮らしですよね」 「ええ、身を隠すことにしました」 「出費が大変ですね。いいんですか、私なんかにご馳走してくれても」 「料理は美味しいんですが、リーズナブルでもあるんです」  直人が片目をつむってみせた。 「安心しました。それではおおいに楽しませていただきます」 「山室さんは残念でした」  直人は山室の欠席を悔しがった。管内で発生した事件のために約束していた会食に参加できないと連絡が入っていたのだ。 「また別の機会に誘ってあげてください。あの人は食べることが大好きですから」 「わかりました」 「家族水入らずのホテル暮らしはいかがですか」 「上げ膳据え膳の生活で妻は『楽だ』と言って両手両足を伸ばしきっています」 「それはいい。相当ショックをうけたでしょうからね。心のリハビリは必要です」 「あの日はパニックで過呼吸までひきおこしましたから」 「お子さんたちは?」 「娘も軽いショック状態でしたが、もう立ち直っています。でも、夜は電気をつけておかないと眠れないようです。息子はまだあのことに実感が持てないようで。お婆ちゃん子でしたから」  二人の背後には木彫りの大きな彫刻があった。  羽を広げて今にも空に飛び出しそうな鳥の彫刻だった。実在する鳥ではない。インドの聖鳥ガルーダの彫刻だった。 「警察が邪禍の研究所を訪れたそうですが、怪しむべきことは見つからなかったと聞きました。母も病室にいて寝たきり状態ですが、存在確認がされています」 「お宅からあそこまでどうやって戻ったんでしょうね」 「わかりません。ですがあいつに襲われたとき、位置情報サービスアプリを見ていたんですが、一キロぐらい離れたところからあっというまに家まで到達しました。飛翔してきたとしか思えない速さでした」 「悪鬼ですからね。我々の常識でははかりしれない力があるんでしょう」  二人の背後の彫刻の目がぎょろりと見開かれた。 「いつまでホテルに身を寄せるおつもりですか」 「まだ、決めていません。転居も考えているんですがまだ実行に移す前の段階です」 「娘さんは十八匹の夜叉のうち「アブータ・サンニヤ」をあなたの母上の化身だと確信したそうですね」 「このあいだ、お話したとおりです。気味の悪い看護士に取り囲まれてゾッとしたと言っています」 「その看護士も、もしかしたら夜叉かもしれませんね」  ガルーダの首がゆっくりと動いて、村松の横顔を凝視した。 「待ち構えているだけでは埒があかないですね」  村松がぽつりと口にした言葉が、直人の胸に波紋を広げる。 「村松さん?」 「今までは事件が発生した後に取材をしていたので、私の行動で人を助けることはできませんでした。邪禍の正体がわかり、姥山脳神経研究所をはっているうちにあなたのことを知りました」 「では、私があの研究所を訪れたときに?」 「ええ。山中に車を隠して邪禍の動きを見張っていたところにあなたが現れたんです」 「そうですか、まったく気がつかなかった」 「申し訳ありませんがつけさせていただきました」 「まったく申し訳なくなんかありません。おかげで今、こうして命永らえていられるんですからね」 「邪禍の正体はわかっています。ですが法的な手続きで奴の正体をあかし、祓うことはできない。これ以上、あの悪鬼の跳梁を許さないためには、直接的な行動に出るしかないと思い始めまして・・・」 「でも・・・そうすると世間的にはあなたが法を犯すかたちになりますよ」 「ええ」  空になった料理の皿を見つめ、松村は暗い目をして思い悩んでいるようだった。その横顔をガルーダの飛び出した眼球がじっと見つめていた。
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