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ヤカーの女王
村松は地下鉄の駅で電車を待っていた。春日直人と別れてから一時間半ほどたっている。途中、居酒屋に立ち寄って独りで飲んだ。その酒の酔いが村松のからだを軽く揺らしている。遠くから電車の轟きが近づいてくる。村松はホームの前方にむかって足を踏み出した。
いつのまにか左右と背後を女たちに囲まれていた。
「夏日(なつひ)、この人がそうなの?」
「ええ、この人がそうよ香奈(かな)」
「どうする真瑠(まる)?」
三人は仲良さそうに村松を挟んで交互に言葉を交している。
村松はぼんやりと女たちを眺めた。青白い顔に能面のようなあるかなしかの笑みがはりついている。目は細く、三日月形になっていた。見ていると女たちの表情がかわっていく。目が大きく見開かれて、眼球が飛び出しそうになった。かすかな笑みを浮かべていた口元が大きく左右に広がった。
「夏日って当て字なのよ、村松さん」
不意に女が村松の手をとって顔を覗きこんだ。
「え?ちょっと待って、何を言っているんだ?」
見ず知らずの女から突然名前を呼ばれて村松は驚いた。
「ゲディだから夏日」
顔を村松に向けてもはや、顔面のほとんどがふたつの目玉に占められたような顔の女が言った。
「カナだから香奈」
「マルだから真瑠」
ほかの二人も抑揚のない口調で目をむきながら話した。
「ちょっと待て!」
左右から腕をつかまれた村松が女たちの手を振りほどこうとしたが、恐ろしい力で締め付けられた両手は自由にならなかった。背後から背中を押されてホームのへりに近づいていく。
「待て!おまえたち!何をする」
「ゲテイ・サンニヤ」
「カナ・サンニヤ」
「マル・サンニヤ」
女たちが念仏を唱えるように同じような言葉を繰り返した。
「なに!」
村松の顔が恐怖でゆがんだ。
「皮膚病になるよ」
「目がつぶれるよ」
「死が訪れるよ」
「お、おまえたちは、や、邪禍の手下の夜叉か!」
「ゲディだから夏日」
「カナだから香奈」
「マルだから真瑠」女たちは淡々と話し続ける。そこには何の感情も読み取れない。女たちが村松を前へ、前へと押し出していく。
「やめろ!やえてくれ!」村松の悲鳴が電車の轟音にかき消された。
ホームに突進してきた電車の前に村松のからだと腕を抱えこんだ二人の女、背中に抱きついた一人の女が飛び込んだ。
「昨日、午後十一時頃、地下鉄××線の××駅のホームから男女数人が電車に飛び込んだという通報が警察に寄せられました。現場にむかった警察と消防は線路に転落して電車に轢かれた男性の遺体を発見しました。その後の調べで男性はフリーライターの村松文雄さんであることが判明し、警察は事件と事故の両面で捜査を続けています。目撃情報では、村松さんは数名の女性と一緒にホームから落ちたということでしたが、現場に女性の遺体はなく、遺留品も村松さんのものと思われるバッグしか発見されませんでした。女性が一緒に落ちたというのは見間違いではないかと警察は発表しています」
ホテルの部屋で朝のテレビニュースを見た直人は呆然となった。
「まさか・・・まさか村松さんが・・・」
「あなた・・・」
郁美が三人掛けのソファーに座る直人の横に腰をおろし、左肩に手をそえた。その手を握り返す直人の右手は汗でぐっしょりと濡れていた。
「昨日・・・昨日、この間のお礼で一緒に食事をしたんだ。そのときは元気だった。自殺なんかであるはずがない」
「パパ、しっかりして」
杏も直人の隣に腰を下ろした。
「命の恩人だったんだ。俺たちの」
郁美も杏もあの日のいきさつは直人から聞かされていたから承知している。直人の急を聞いて、刑事の安室に連絡をとった村松のおかげで、安室からの通報をうけた管内の警察が迅速にかけつけてくれたのだ。
「怖いわ、私」
郁美が両腕をかかえこんで背中を丸めた。
「ママもしっかりして」
杏が直人ごしに郁美の背に手をまわした。
「村松さんのことを邪禍は知っていたんだ・・・」
直人は村松が殺された地下鉄の駅名を思い出した。昨日、二人で会食したインド料理店の最寄り駅だった。もしかしたら、昨日、二人が会って話をしていたことを邪禍の奴に知られたのだろうか。直人の胸に嫌な予感が渦巻きはじめた。もしかしたら、自分も邪禍の配下の夜叉につけられていたかもしれない。このホテルは邪禍に知られている可能性がある。そのことに思い至った直人は家族に言った。
「すぐにホテルを引き払う!残りの予約はキャンセルするぞ!俺はフロントに行ってくるからみんな、仕度をするんだ!」
「どうしたの?パパ」
「あなた?」
杏と郁美に直人は自分の考えを伝えた。話を聞いた二人は慌てて身支度を始めた。
「昼の間は襲われる可能性が少ないと思う。ここから立ち去って新しい宿を見つけるんだ」
「パパ、ジャックは?」
「ペットホテルに寄って連れ出そう。今度は一緒にいられるところを探す」
「どこに行くの?」
「わからない。とにかくどこか遠くに行こう」
慌しくその日以降の宿泊予約をキャンセルし、車をとりにホテルの地下駐車場へ降りた直人だった。地下駐車場は空いていた。むき出しのコンクリートの天井に取り付けられた蛍光灯が弱々しい光を駐車場内に投げかけている。ところどころ、蛍光灯が切れている箇所がある。ついてはいてもジジジジという接触不良の音をたてながらパッパッと点滅を繰り返す蛍光灯もあった。
直人は車に向かった。足音が反響して駐車場内の静けさが逆に際立つように感じられた。何かの気配を感じて直人は立ち止まった。足音も消えるかと思われたが、そうはならなかった。足音が駐車場内に響いた。自分だけではなかったのだ。足音が自分に近づいてくるように思えたが、反響しているためどこから自分に向かってくるのかわかりにくかった。左右を見回して自分に近づいてくる影をとらえようとした。
唾を飲み込む音が異様に大きく聞えた。
歩いていた足音が駆け足にかわった。直人の髪の毛が逆立った。自分の車に向かって走り出した。慌しくポケットからキーを取り出し、車に向けてリモコンのボタンを押した。車のドアロックが解除された。ドアに飛びついて開けた。そのとき背後から声がかけられた。
「春日さん!」
足音が近づき、駐車場の壁に影が走った。
「誰ですか?」
直人が大きな声で背後の影に声をかけた。
「山室だよ!春日さん」
直人は太いため息をついた。安堵のため息を。
「山室さん!」
ジャンパーを着た山室が現れた。
「脅かさないでくださいよ。心臓が破裂するかと思いました」
「すまん!そんなつもりは毛頭なかったんだ」
「とりあえず、中に入ってください」
助手席に山室を座らせ、直人は運転席に座った。山室には隠れ場所を伝えていたから、村松のニュースを見てすっ飛んできたんだろう。
「村松さんのことですね」
「ああ」
「やつらにやられたと思いますか?」
「ほかの可能性が考えられるかね?」
「いいえ」
ハンドルに両手を添えて、直人は前を見た。
「今日は非番なんですか?」
「いや、勤務中だ」
「いいんですか?管轄外の場所に来ても」
「よかないが、非常事態だろう」
「村松さんが殺されたということは、あなたの存在もやつらに知られている可能性がありそうですね」
そういう意味で非常事態と言ったのだろうと直人は推察した。
「あんたもそう思うかい?」
「ええ」
「そうだよな」
安室の顔がギリッと引き締まったように見えた。
「このままじゃあ、埒があかねえと思ってんだ」
「どういうことです?」
「逃げ回っても、隠れても、根本的な解決策にはならねえだろ」
「ええ・・・まあ」
「あんたを皮肉ってるわけじゃねえんだ。気を悪くしないでくれ」
「そんなこと・・・ありませんよ。この間だって山室さんが警察に連絡してくれたから地元の警察も迅速に動いてくれたんだと感謝しています」
一般市民からの通報ではあれほどすばやくは対応してくれなかったのではないかと直人は思っていた。
「そう言ってくれるのはありがたいがね・・・なんで俺があんたの危難をあのとき知っていたんだって、署内でけっこー絞られちまったよ」
「そんなことがあったんですか。知りませんでした。すいません。・・・それで・・・話したんですか?ヤカーや夜叉のことを」
「まさか。前に言ったとおりさ。署内でそんなオカルト話をできるはずがない」
「そうですよね。すいません」
「あんたが謝ることじゃねえよ。あんたと村松が知り合いで、その村松から緊急通報が届いたんだ、とこれは事実だからな。それで押し通したんだが・・・」
「どうしました?」
「最近、村松と話をしていたら、あいつがこんなことを言い出したんだ。『このままじゃ埒があかない』ってね」
さっき自分が口にした言葉を山室は村松から聞いたんだと言った。
「それって・・・」
「逃げてばかりいないで、立ち向かってやろうじゃないかって言うんだ」
このあいだ、インド料理屋で村松が口にした言葉と符合する話だった。
「村松がやられちまった。あんたの家族も狙われているが、俺もあいつらの次の標的じゃないかと思うと、村松の言っていたことが妙にリアリティを持ち始めてさ」
山室はジャンパーのジッパーを下ろして左胸を直人に見せた。そこにはホルスターに収められた拳銃があった。
「護身のために常時、持ち歩くことにしたんだ」
「護身のため・・・だけですか?」
直人の頭に浮かんだ疑惑を裏付けるように山室はにやりと笑った。
「山室さん、まさか邪禍の研究所を・・・」
山室は顔をしかめるだけで何も言わなかった。
「春日さん、あんた以前、あの研究所に行ったときに邪禍から『ヤクシャがひとりと女がひとりいる』って言われたって言っていたな」
「ええ。母のほかに二人入院しているって言っていました」
「『ヤクシャ』って言ったってことは一人は・・・いや一匹はすでに夜叉になっているってことだろうな。女と言ったのはまだ、化け物になっていない患者と考えていいんじゃないか」
「そうかもしれません」
「いずれにせよ、あんたの家族以外にあと二家族が皆殺しの危機に直面しているってことだ」
そうか、自分たちのことで精一杯でそこまで頭が回らなかった。山室の言っていることは正しいだろう。だとしたら、その家族にも危険を知らせなければ。だが、どうやって。
「あんたの家が襲われたとき、おたくの家を管轄する署の刑事が姥山脳神経研究所に行っているんだ。連中から話を聞き出せるかもしれない」
「危険を知らせてやるんですね」
「いや、それだけじゃない。話を信じてくれるかどうかということもあるが、こっちから悪魔の根城を襲うのに加勢してくれないかと思っているんだ」
山室が直人の目をじっと見つめながら言った。
(あ、この刑事は、俺にも参加しろと言っているんだ!)
直人はやっと山室の意図に気がついた。
「逃げ切れると思っているのかい?春日さん」
山室が直人の目を覗き込みながら、重い口を開いて言った。
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