ヤカーの女王

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ヤカーの女王

 日堂家から戻った車から降りてきたのは、直人と日堂仁と老齢の男だった。老齢の男は青い帽子をかぶっていた。コテージに入る前に帽子をとると頭はきれいに剃られて艶々としていた。スラックスと厚手のセーターの上にカシミアのコートを着ていたが、コートも入室前に脱いでいた。きちんとした性格なのだろう。 「仁!」  同級生の日堂仁を見て杏がはじけるように立ち上がった。顔がくしゃくしゃになっている。 「杏、たいへんな目に遭ってるんだな」 「あんた、何しにここへ?学校は?」 「しばらく自主休校だ」 「私のことを心配してくれてるの?」 「悪かったな。最初におまえの話を聞いたとき、信じてやれなくて」 「ううん、そんなの当たり前だよ。私だっていまだにこんなことが現実に起こるはずないって思うときあるもん」 「爺ちゃんが、おまえのお父さんたちと一緒に悪魔の巣窟に行くって言うんで、留守をするおまえたちと一緒にいてやれって言われてきたんだ」  来訪の目的を語った仁はすぐに言い直した。 「もちろん、俺が自分から言い出したんだぜ」 「わかってる。仁、ありがとう」  娘と仲良さそうに話している若者を視野の隅に置きながら、直人は日堂晃と名乗る僧侶と向き合って座った。晃は九十八歳ということだったが、かくしゃくとしていた。いまだに現役の僧侶らしい。話す言葉も明瞭で聞き取りやすい。自分の体験についての記憶もしっかりとしていた。さすがは元海軍士官ということか。 「それでは、あなたの乗られていた・・・」 「空母赤城です」 「その赤城の軍医が、ヤカーにからだをのっとられたのかもしれないというのですね」  村松から聞いた話と符合していた。 「そうです。駆逐艦不知火が漂流中の漁船を発見し、その船に乗り込んだ兵士たちが正体不明の病を発症しました」 「そして、赤城に運び込まれて・・・」 「次々と死んでいきました。あのときは赤城が幽霊船のように思われてしかたがありませんでした」  日堂は往時を思い出すように、一言一言慎重に言葉を選んで話していた。 「それで軍医が消息不明になって、軍医の家では家族の惨殺死体が発見されたと・・・」 「そうです。そして最近、頻発している猟奇殺人事件があのときのそれとそっくりなのです。春日さん、私にすべてを話してくださいませんか」  日堂晃は直人にむかって言った。 「少し長くなりますが・・・」 「かまいません。思い出せる限りの話をお聞かせ下さい」  直人は、邪禍という男とバーで出会ってからの一連の出来事を時系列に従って順に話した。日堂晃は、ときおり質問をする以外は黙って直人の話を聞き続けた。村松が地下鉄のホームから転落し電車に轢き殺され、安室という刑事が自衛のために邪禍の研究所を襲おうと持ちかけてきたこと、自分たち以外にも二家族から患者を預かっていた邪禍の研究所では、すでに夜叉化したものが一匹いて、一家族が皆殺しにあい、一家族が長男を失っていて、安室の説得に応じて自分たちと協働することに同意しているところまでを話し終えると、直人は目の前の冷めてしまったコーヒーに口をつけた。 「なるほど・・・」  日堂晃はつぶやいて、直人に自分も援助の手を差し伸べたいと言い出した。 「実はスリランカからこの日本に移り住んでいる、原始仏教の僧侶がいるのです」 「原始仏教?」 「上座部仏教(じょうざぶぶっきょう)とも言います。現存する最古の仏教の宗派です。パーリー語の三蔵を伝えていることからパーリ仏教ともいわれています。パーリー仏典は釈迦の教えを伝えるものです。現存する唯一の仏典です。スリランカやミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスなどに残されています」  日堂はそこで言葉を切って仏教の宗派の話をした。 「現在、我々がお寺さんと呼んでいる日本の各仏教宗派は大乗仏教と呼ばれるものです」 「大乗仏教?」  宗教の知識がない直人は、日堂晃の言葉をおうむ返しすることしかできない。 「そもそも仏教の教祖は釈迦ですが、釈迦は教義も教団も残しませんでした。彼は解脱することのみを追求したのです。後世の仏教は救済を謳い、教団を形成し、経典が作られました。それらを大乗仏教と言います。本来の釈迦の追及したものとは異なる宗教なのです」 「原始仏教とは、南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とは異なる仏教ということですか」 「そうです。原始仏教は釈迦が入滅されてから約百年くらいまでの仏教です。釈迦は入滅にあたりなにも残しませんでしたから、釈迦の弟子達が釈迦の言葉を口伝や書で伝えたりしたのです。『大般涅槃経』などがそれにあたるでしょう。そこには釈迦が悟りを開くために禅定に入ったときにその邪魔をする悪魔が現れたと書かれています」 「釈迦の仏教にも悪魔がいるのですね」 「ええ。マーラと呼ばれています。マーラは煩悩の化身です」 「日堂さんは、そのマーラが邪禍だとおっしゃるのですか」  静かに頷いて日堂は言葉を続けた。 「マーラは釈迦のもとに美しく性技に長けた三人の娘を送りこんだり、恐ろしい怪物達に襲わせたりしましたが、釈迦は悟りを開きます。マーラのたくらみは失敗しました」 「その後、マーラはどうなるのです?」 「ここからは私の推論なのですが、海を越えたセイロン島にマーラが巣くったのではないかと思っています」 「邪禍として島を支配していたということですか」 「はい。夜叉族が跳梁跋扈していたことでしょう。ですが釈迦の入滅とともにセイロン島に現れた男が夜叉を滅ぼします」 「あなたはヤカーという名前を七十数年ぶりに耳にされ、こちらにいらっしゃったのですね」 「はい。そして春日さんの話を聞いて、ヤカーがこの日本で活動を再会したことを確信しました。ですからセイロン島の夜叉を滅ぼした男の子孫をここに呼びたいと思っています。宜しいでしょうか。そして私とその男を姥山脳神経研究所に連れていって欲しいのです」 「ですが、あなたはご高齢でいらっしゃる」 「なんの、力仕事こそできませんが、私の法典に関する学識が何かお役にたつかもしれませんぞ。それに私が呼ぼうとしている男は頼りになります」 「先ほどからのお話を伺っていますと、あなたはスリランカ・・・当時のセイロンにおける仏典を研究されていたのですか」 「『パーリー仏典』です」 「ですが、亡くなった村松さんは『パーリー仏典』ではヤカーの調伏の具体的な方法がわからないと言っていましたが」 「確かに仏典にはそのような記載はなかったと思いますが、ヤカー調伏のために呪術師が行う悪魔祓いは存在します」 「そうなんですか」 「ヤカーの呪詛は『コディウィナ』と呼ばれています。これを断ち切る祓いが『キャピーマ』です。ただし、その悪魔祓いは秘かに行われなければなりません」 「調伏できるのですね」 「スリランカの叙事詩『大王統史(マハーワンサ)』には紀元前五四三年にインドからセイロン島に渡ってきたウィジャヤ王が、当時島に跳梁していた夜叉族を一掃したとあります」 「さっき、おっしゃっていた釈迦の入滅とともにセイロン島に渡ってきた男が、その王ですか」 「歴史的にも夜叉を滅したことが記されています」 「夜叉を殺せるんですね」  日堂晃の言葉に直人は希望を見出した。すぐに山室に電話をして事情を説明した。山室も日堂晃と日堂のすすめる男の参加は願ったり適ったりだと言った。
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