ヤカーの女王

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ヤカーの女王

 コテージにRV(レクリエーショナルビークル)で乗り付けてきた男は、蓬髪だった。それだけでも直人の想像を裏切っていたが、僧侶がやってくると思っていた直人はその風貌を見て、どちらかと言えば目の前の逞しい男は戦士に近いのではないかと思った。男は若かった。まだ三十歳は越えていまい。上腕筋が発達していて、冬だというのにインナーにはそれしか着ていない半袖のTシャツがはちきれそうになっていた。 「マヒンダ・シルバです。日本名は有働琢磨(うどうたくま)。帰化人としては何代目になるか数えられないほど昔からこの国に根付いています」  日堂晃が紹介する男は力強く、直人の手を握った。 「お坊さんではないのですか?」  直人の質問に有働は首を振った。 「キャピーマを生業にしている一族の出ですが、それでは食べていけませんのでね。ボディガードのようなアルバイトをしています」  ヤカーの呪詛『コディウィナ』を祓う『キャピーマ』の名を口にした有働だったが、エクソシスト専業ではないことを明かした。 (そりゃそうだろう。夜叉なんてそうそう現れるはずもないだろうからな) 「日本語がお上手なのは、先祖代々、日本にいらっしゃったからですか」 「ええ」  RVから有働が持ち出した奇妙なものが皆の目にとまった。  ツルのような植物が何本もくるくると巻かれたものだった。 「何ですか?それは」  日堂仁が好奇心にかられて有働に聞いた。 「退魔の道具だよ」  有働が巻かれたツルを少し伸ばして見せた。 「ムチみたいですね」 「そうだな。ムチと言ってもいいかもしれない。だが、ムチよりも怖いものさ」  ツルの先には短剣が括り付けられていた。 「これを振り回すんだ」  有働が仁にゼスチャーで武器の使い方を説明した。 「ずいぶん、物騒なものね」  杏が仁にひそひそと耳打ちした。 「スリランカの『アンガム・ポラ』という武術なんだ。一子相伝の秘術でね。イギリスの植民地時代に徹底的に弾圧されて、本国ではこの技の使い手はほとんどいなくなっているんじゃないかな」 「この日本で秘かに受け継がれてきたってことですか」  仁に有働は微笑んだ。 「こんなもの、航空機ではもはや持ちこめないしね」 「搭乗手続きでひっかかっちゃうわ」  杏も同意した。    安室と打ち合わせをして、待ち合わせの場所と時間が決められ、元海軍士官の老僧侶と退魔士の武術家も直人たちと邪禍の待つ悪魔の巣窟に向かうことになった。  新庄明彦(しんじょうあきひこ)と満(みつる)親子は二人ともキルトジャンパーを着ていた。  二人は姥山脳神経研究所に明彦の父親を預けていた。 (ということは、あの日邪禍が言っていた『ヤクシャ』のほうだな)  直人は男の夜叉が『ヤクシャ』で女の夜叉が『ヤクシー』と呼ぶことを日堂晃から聞いていた。ビルから落ちて死んだのは満の兄にあたる明彦の長男だった。明彦の父も認知症が進行していて、孫にあたる長男とは諍いが絶えなかったと明彦は言った。長男が死んだその日、電話が明彦にかかってきたという。 「ジジイがおっかけてくるんだ!」  息せき切ったぜいぜいという呼気が聞え、悲鳴にも似た長男の最後の叫びがその一言だったという。ジジイとは長男が明彦の父のことを普段からそう呼んでいたそうで、それだけでも二人の関係があまり芳しくないことはうかがい知れた。電話はすぐに切れてしまったという。転落死した長男は幸いというべきか、地上の通行人をまきこむことはなかった。すぐに警察と救急車がかけつけて死亡が確認されたらしい。誰にも見つからなければ、夜叉に喰われていたのかもしれないな、と直人は話を聞きながら思った。   新庄明彦は信用金庫の総務部勤務で、実直そうな顔つきの男だった。息子の満はアメリカンフットボールをやっているというだけあって、ただでさえ体が膨らんで見えるキルトジャンパーがはちきれそうになっている。安室の紹介で挨拶をかわすと、一行は直人の車と有働のRVに分乗して姥山脳神経研究所に向かった。  朝早くの待ち合わせは現地の到着時間を考慮しての選択だった。日が昇っている間に何らかの行動に移したいと安室は直人に語っていた。  直人は防犯グッズを扱っている店で、スタンガンと催涙スプレーを買って車のトランクに入れていた。トランクの中にはそのほかに木刀が三本入っている。まるで暴走族になったようだと直人は木刀を入れながら思った。木刀のほかに包丁とナイフもバッグの中に忍ばせている。 「パパ、喧嘩なんてしたことないんでしょ」  隠れ家のコテージを出るとき、杏にそう言われたことを思い出しながら、直人はハンドルを握っている。 「空手とか剣道とか柔道の有段者だなんて聞いたことないもの。本当に悪魔をやっつけるつもりなら、パパ、刑事さんのそばか有働さんのそばから離れちゃ駄目だよ」  娘のありがたい忠告を受け入れるつもりはなかった。逃げ隠れをしているからどうしても恐怖感が増長してしまうのだ。主導権を奪って、能動的に動けば恐怖感も薄らぐし、もしかしたらあの化け物を退治できるかもしれない。今はそう信じるしかなかった。  前にも走ったことのある鬱蒼とした山中の一本道を車は進む。  日没にはまだそうとう時間があるが、周囲の山並の高さが作る影が濃く山間を覆っていた。太陽が黒い雲に覆われ、陽の光が弱々しくなっていた。 「雪でも降りそうな雲行きだな」  直人が空を見上げながらいった。 「人がいますね」  助手席に座っていた日堂晃が前方に人影を見つけて直人に言った。人影は白かった。車が近づくと、白装束の葬式用品の死に装束のようなものに身を包んだ女が道の中央に立っているのが見えた。この寒気の中で正気の沙汰とは思えぬ身なりだった。 「十分に怪しい格好だな」  安室が胸のホルスターに手をやりながら言った。 「誰でしょう?」  直人が疑問を口にしたとき、女が車に向かって突進してきた。 「危ない!」  咄嗟に直人が急ブレーキを踏んだ。だが、間に合わなかった。ダンパーに脛を跳ね上げられた女がボンネットの上に乗り上げ、そのままフロントグラスに向かって頭をつっこんできた。 (まさか!)  直人は息をのんだ。  フロントグラスにつっこんでくる女が顔を上げていた。女の顔は夜叉になっていた。夜叉の顔がフロントグラスにまともにぶつかった。蜘蛛の巣のようなひびが前面に広がった。白いひびに真っ赤なものが吹きつけられた。夜叉の血だった。黒目をむき出しにした夜叉の目がフロントグラスのむこうから直人を睨みつけていた。  直人はアクセルを踏み込んだ。  夜叉はボンネットの上で直人の視界を遮っている。ワインディングした山道を踏み外す危険があり、直人はすぐに車を止めようとした。 「止めないほうがいい!」  後部座席で安室が叫んだ。 「でも!」 「奴を人だと思うな!」  逡巡する直人を叱咤して安室がフロントグラスに向かって特殊警防を突き出した。ひびの入ったフロントグラスが粉々に飛び散り、寒風が社内に吹きこんできた。同時に夜叉が社内に侵入しようと動き出した。 「わあっ!」  直人が叫ぶと、後部座席から身を乗り出した安室が夜叉の手と顔を特殊警防で殴った。夜叉がボンネットから転がり落ちる。後続のSUVが地上に投げ出された夜叉のからだを避けることはできなかった。SUVが大きくバウンドし、夜叉を踏み越えたことを振り返った先頭車輌の人々に伝えた。二台の車はそのまま走り去ろうとした。 「有働さん!」  有働のSUVに分乗していた新庄親子が背後の光景をドライバーの有働に伝えた。 「追いかけてきます!」  路上に投げ出され、二台の車にぶつかった女は白い死に装束を真っ赤に染めながら幽鬼のように立ち上がったかと思うと、ものすごい勢いで追いかけてきた。山道のことでアクセルを目一杯踏み込むことができないとは言え、人間が追いつける速度でもなかった。だが、女はSUVとの距離をみるみる縮めてきた。 「追いつかれる!」  リアウインドごしに追いかけてくる夜叉の姿に恐怖の叫びをあげた新庄親子だったが、有働の反応も早かった。日本語ではないマントラをぶつぶつと口にしながら、車を急停車させて思いきりバックした。  ドンッ!  SUVが再び化け物をはね飛ばす衝撃で身を震わせた。夜叉が両手を広げて後ろ向きにひっくりかえった。有働は車を前に出し。再びバックさせた。  バキバキバキ!  骨を粉々にしたような音とともに、車を止めた有働が運転席のドアを開けると、車の下から長い爪をはやした枯れ枝のような腕が伸びて震えていた。やがてぱたりと力なく地上に落ちた。有働はアクセルを踏み込み、夜叉のからだを入念に踏み潰し、とどめをさした。 「待ち構えていやがったな」  有働がひとりごちた。先頭車輌の安室も同じ言葉を口にしていた。 「我々の動きが知られているのでしょうか?」  直人の言葉に日堂晃がその可能性をほのめかした。 「ヤカーには三つ目の邪眼があります。あるいはそれで我々にははかりしれないものを見通すことができるのかもしれません」  だが、日堂も自分たちの車の頭上を飛んでいる醜い鳥の姿に気付いていたわけではなかった。ガルーダという凶鳥の目とヤカーの邪眼が重なっているかもしれないということは地上を走っている人間たちにはわからなかった。  やがて前方に、行く手を遮るかのようにそびえ立つ大きな鉄扉が現れた。 「どうします?インターホンがついていて、かければ研究所につながりますけど・・・」  車を止めて鉄扉の前まで行った直人がかじかむ手で鉄扉をつかんでガチャガチャとこじあけようとしながら言った。電気式のロックがかかっている鉄扉は押しても引いても開く気配はなかった。 「車でつっこめば、なんとかなるかな」  安室が鉄扉を見上げながら言った。まさかと思って直人が安室を見ると、冗談を言っているようには見えなかった。本気で考えているんだ。と気付いて直人も腹をくくった。 「みんな、一旦降りてください」  直人が日堂晃と安室を車から降ろして、切りかえしを何度かして鉄扉に車のリアを向けた。 「いきますよ!」  ギアをバックに入れて、直人はアクセルを踏み込んだ。砂利を跳ね上げながら車がバックし、リアが鉄扉に激突した。  一発で鉄扉が左右にはじけるように開いた。  ドアを開けて皆が乗り込むと、直人は五百メートル先にある姥山脳神経研究所の円形の車寄せまで車を走らせた。六人は車から降り、安室が緑錆銅板の扉に手をかけた。  ぎぃいいい。  扉に鍵はかかっていなかった。薄暗いホールに入り、長い廊下を見渡す。人の気配はなかった。 「母の病室に行ってみましょう」  直人が皆を案内する。  施錠されていると思ったドアは何の抵抗もなくすっと開いた。病室に飛び込んだ直人は、空のベッドと床に脱ぎ散らかされた血だらけの衣服を見た。 「いない!」 「父の病室に行ってみましょう!」  新庄明彦が言った。 「二階になります」  五人は階段をあがった。踊り場の絵の前で日堂晃が立ち止まる。 「ヤカーと十八匹の手下の夜叉の絵です」  杏が見たと言っていた薄気悪い絵というのはこれのことだったのか。と直人は得心した、ということはこの上に十八匹の夜叉それぞれのレリーフや像があるということか。二階にあがると杏の言ったとおり、不気味な装飾品が並んでいた。 「アモック・サンニヤ、アブータ・サンニヤ、ブータ・サンニヤ、ビヒリ・サンニヤ、デーヴァ・サンニヤ、ゲディ・サンニヤ、ギニジャラ・サンニヤ、ゴル・サンニヤ、グルマ・サンニヤ、ジャラ・サンニヤ、カナ・サンニヤ、コラ・サンニヤ、マル・サンニヤ、ナーガ・サンニヤ、ピス・サンニヤ、ピット・サンニヤ、スレスマ・サンニヤ、ヴァータ・サンニヤ」  日堂晃がレリーフを見ながら十八匹の夜叉の名をあげた。珠子は三番目のアブータ・サンニヤにとりつかれたのだと、直人は安室に言った。 「ここです!」  新庄がドアノブを回すと、その病室も施錠されていなかった。 「人がいるぞっ!」  安室が室内を覗き込んで言った。  病室のベッドに痩せ細った男が仰向けになって寝ていた。その顔には白い布がかけられている。布をとると痩せ細った老爺の顔があらわれた。 「オヤジっ!」新庄明彦が自分の父だと皆に伝えた。 「息をしていないよ!」息子の満が胸に手をあて、耳を老爺の胸に押し当てて言った。 「死んでいます」  むしろ、ほっとしたような表情で明彦は言いながら父の顔に白い布を戻した。 「邪禍の部屋はどこだ?」  安室の質問に直人は答えられなかったが、新庄明彦は知っていた。 「ここ、二階の一番奥にあります」 「入ったことがあるんですか」  直人の問いに新庄が黙って頷いた。  新庄満の背後でベッドに横たわっていた老爺の上半身がすっと起き上がった。顔を覆っていた白い布が滑り落ちる。顔はまっすぐ正面を向いたままだ。目は見開かれているが、まばたきひとつしていない。焦点がどこにもあっていないように無表情だった。  満も他の皆もその変化に気がつかない。部屋を出ようと出口を見ていた。  老爺の首がゆっくりと満にむけられた。あいかわらずそこにはいかなる表情もうかんでいない。何の感情もよみとれない能面のような顔だった。  老爺のはだしの足が床に降りた。  右足が床につく。  左足があとに続いた。  老爺がベッドから離れた。  気配を感じて満が振り向いた。 「おおっ!じいちゃん!」  満が叫ぶと同時に老爺が満に襲いかかった。  肉がそぎ落とされたような細い腕がアメリカンフットボール選手だという太い首周りの満の首に巻きついた。 「じいちゃん!何をする?やめろ!」  満の叫び声が途中で悲鳴にかわった。老爺の口が耳元まで裂けて、満の首筋に喰らいついたのだ。老新庄は夜叉に変化していた。牙が満の首筋に深々と打ち込まれた。  パン!  安室が夜叉の頭に銃口を押し当てて銃を発射した。  弾丸の射出口側の頭が吹き飛んだ。  脳漿と血があたりに散乱した。  夜叉が床に転がった。首筋を噛まれた満が手で傷口を押さえながら跪き、呻いている。 「満!大丈夫か?」  父の明彦が満の背に手をやって息子の様子を確認する。  安室の握るニューナンブM60の銃口から薄く煙があがっている。 「安室さん・・・」  直人の呼びかけに顔をむけて安室は緊張した顔のままで言った。 「夜叉ってのは、一度死んだ人間が蘇るのかい?ゾンビみたいに?」  夜叉の死体を見ながら日堂晃に聞いたが、日堂も明言はできないようだった。 「ですが、夜叉を殺すことはできそうですね」 「まさか、また起き上がったりはしないだろうな」  薄気味悪そうに安室が言った。 「邪禍の部屋に行きましょう」  部屋を出ると廊下の奥に人影があった。  能面のような感情のうかがえない薄笑いを顔に浮かべた看護士姿の女が立っていた。  女が言った。 「あら、あら、勝手に病院に入ってきては駄目じゃないの」  不法侵入を咎めているのだが、その口調に責める気配はなかった。むしろ嬉しそうに女は言った。 「駄目よ、あなたたち」  女が禁句を繰り返した。 「悪いことをした罰を与えなくてはね」  背後から別の女の声がした。  振り向くと、正面に立っている女と同じ看護士姿の女だった。この女も感情をうかがわせない笑いを顔に張り付かせていた。 「カナ、どうする?この人たち」  正面に現れた女が直人たちの背後に現れた女に話しかけた。 「目をつぶしてやろうかしら、ゲディ・サンニヤ」 「あんたは盲目の厄病を振りまけるからね」 「あんたは、皮膚病を流行らせればいい、カナ」  話しながら面白そうに笑う女たちの口が大きく裂けた。  角が頭の両側に生え、牙が口角に顔を出した。二人の看護士は二匹の夜叉に姿を変えた。 「ギニジャラが撃たれているよ!」  新庄の父親の病室から女の叫び声が聞えた。 「あら」カナが笑った。真っ赤な舌が夜叉の口からひらひらと飛び出した。 「あら」ゲディが笑った。 「やっと男の夜叉が現れたと思ったのにねえ」  新庄の病室から一匹の夜叉が顔を出した。 「な?さっきまではいなかったのに」  直人の叫びに新たに加わった夜叉が天井に向かって四つんばいになって這い上がった。その動きは蜘蛛かゴキブリのようだった。さっきまでは天井にへばりついていたのだろうか。 「ひひひひひ」  天井から夜叉が笑いかけた。 「ギニジャラに噛み付かれた奴がいるね」  新庄満が首筋をおさえながら、唾を飲み込む音がした。 「可哀想にねえ。ギニジャラは高熱を振りまく夜叉さ」  夜叉の言葉が終わるか終わらないかのうちに、満の体から煙が立ち登りはじめた。 「な、なんだ?」  満が自分のからだをばたばたと手ではたいた。 「熱い!」  満の耳から、鼻から、口から、煙が吹きだした。 「満!」 「熱い!熱い!」  新庄明彦が息子に近づこうとしたが、その瞬間、満の体が火に包まれた。絶叫が廊下に響き渡った。直人と日堂晃が服を脱いで、満の体を覆う火をはたいて消そうと躍起になった。 「無駄だよ」 「無駄なことだよ」 「すぐに炭になっちゃうよ」  三匹の夜叉が嬉しそうに叫んだ「ひひひひひひ」狂女の笑い声が廊下に満ちた。 「満!」  新庄明彦の痛切な叫びに、炎に包まれた満が手を差し出した。ものすごい熱気が明彦にむかって放たれていた。髪がじりじりと焦げる音がしたが、明彦はそのままの位置で人間松明と化した息子を泣きながら見つめるしかなかった。 「マル、譫妄を与えておあげよ!」  天井にぶら下がる虫のような夜叉にゲディが言った。 「おう!」  マルと呼ばれた夜叉が天井から安室に向かって飛翔するように飛びかかってきた。安室の拳銃の銃口から発射炎が吹きだした。弾は外れた。安室のからだに夜叉がしがみついた。その勢いで安室が床に倒れこんだ。そのまま床をすべってゆく。夜叉が醜い顔をふりかざし、安室の顔を噛み裂こうとした。安室の左手が夜叉の角を掴み、顔をあおむけにした。夜叉の手が安室の喉にかけられたが、安室の右手の銃が夜叉のこめかみに当てられるほうが早かった。  パン!  銃声が響き、夜叉の半面が吹き飛んだ。血しぶきをあびた安室が夜叉のような凄惨な顔になっていた。 「二匹目!」  安室が叫んだ。  今日、二匹目の夜叉を殺したという雄叫びだろう。  前方からゲディ・サンニヤと言われた夜叉が床に身を沈めるように身を縮めて直人たちに突進してきた。同時に背後にいたカナ・サンニヤも両手を振りかざし、口を耳元まで裂きながら突進してきた。  夜叉から直人や新庄明彦を守るかのように正面から迫る夜叉の前に有働琢磨が立ち塞がった。  夜叉は身をかがめて襲い掛かってきた。  有働の両手が下から上に短くうちふられた。有働が丸めていたツルのようなものが解き放たれ、やってくる夜叉にむかって伸びていった。ツルが伸びきる寸前で有働が腕を上下にしならせた。ツルの先に巻きつけられた短剣が夜叉の前でばらばらに跳ね上がり、からだに巻きつき、突き刺さった。有働の両腕の筋肉がぎりっとたわんだ。何本もの剣呑なムチがそれぞれ剣先の向きをばらばらにしながら、さらに夜叉を切り刻んだ。  夜叉は血まみれになって立ち止まった。  なにかのマントラを唱えながら、有働が動かぬ標的に向かって舞踏のようにムチをまっすぐ投じた。夜叉のからだをムチが貫き、醜い笑い顔のまま夜叉は床につっぷした。うちつけた顔の下から鮮血が広がっていった。  スリランカの武技、アンガム・ポラによる退魔の術だった。  背後の夜叉に向かって、日堂晃を守るように片膝立ちになって銃をかまえた安室が二発、発砲した。  狙いは過たず、夜叉の腹と胸を貫通し、夜叉は笑い顔のまま、自分の胸と腹に広がる赤い染みを不思議そうに見つめた。そして何かを言おうと口が動かしかけたが、言葉を発することなくあおむけに倒れた。醜く開かれたままの口から血を吐き出し、夜叉は背をそらしてのたうちまわったが、やがて動かなくなった。 「あと一匹、夜叉がいるはずです」  夜叉たちの最期を見届けながら、直人が村松との話を思い出し指折り数えて残りの夜叉の数を皆に伝えた。  そして、残りの一匹について言及することを躊躇っていた。  残る一匹は、母、珠子の成れの果てに間違いないからだった。 「邪禍の部屋に行こう」  安室が新庄明彦の案内で廊下の突き当たりの部屋の前に立った。  五発の弾を撃ちつくしたニューナンブに装弾をしなおしている。  日堂晃が扉を開けた。  病室と同じでこの部屋も施錠されていなかった。  直人には室内の壁が正体不明の巨大な生物の体内を思わせるようなぬめぬめとした襞に覆われているように見えていた。襞が生きているようにうねっている。窓がなかった。明かりもなかった。室内は闇に包まれているように思えたが、どこからか淡い明かりがあたりを照らしている。明かりのもとが何なのかはわからない。それは周囲の襞から発せられるてらてらとした気味の悪い発光体のようでもあった。  日堂晃は空母赤城の医務室にいた。見間違いようもない。ここは一九四二年、セイロン沖海戦に勝利し横須賀に帰投の途上にある赤城だった。ほの暗い裸電球の向こうに軍医大尉が座っている。自分に背をむけて日誌を書いているようだった。 「軍医殿・・・」  軍医の背中にむかって日堂晃は声をかけた。その声がわずかに震えている。  安室は地下鉄のホームにいた。  目の前で村松が三人の女に囲まれている。村松は必死で抵抗していた。だが、女たちは村松をホームの先頭にむかって引きずり出そうとしていた。三人、いや、三匹の夜叉だった。三匹が安室の顔を見つめている。村松を囲みながら、顔は安室に向けられている。  これは村松が地下鉄のホームから転落したときの現場なのか?  安室の頭は混乱していた。  新庄明彦はビルの屋上に立っていた。ビルの側面にある非常階段から靴音が聞えてきた。  カンカンカンカン!  下から誰かが駆け上がってくるのだ。  息せき切った呼吸音も聞こえる。悲鳴もまじっていた。 「やめろ!ついてくるな!」  聞き覚えのある声だった。 (あの声は?) 「来るなっ!」  ひときわ大きな声が漆黒の空にこだました。  長男の声だ! 「おまえたちがわしを邪魔者にしたこと忘れぬぞ!おまえたちの仕打ち、そのすべてに仕返しをしてやる!」  長男が何者かに追われて非常階段を駆け上がってきたのだ。長男を追ってきたのは、見なくても明彦にはわかっていた。さっき、病室で刑事に撃たれた夜叉となった父だ。認知症が進み、家族全員の区別がつかなくなり、呪詛の言葉を撒き散らすようになっていた父。邪禍という気味の悪い男に認知症研究の検体として預からせてくれと言われ、一議もなくこれに同意した一ヶ月後のことだ。  屋上に長男が姿を現した。非常階段を振り返りつつ、屋上にある屋内階段のドアをガチャガチャとひねったが鍵が内側からかけられているらしく、開けることができない。非常階段の手すりの上に明彦の父がふわりと飛び上がった。それはとても人の技でできることとは思えなかった。 「ここまでだなあ!」  明彦の父、夜叉が非常階段の手すりの上を飛び跳ねながら、長男にむかっていく。長男の目が恐怖に見開かれていた。 
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