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ヤカーの女王
「人数が増えたから、貯えていた食べ物が不足しそうだわ」
直人たちの留守を預かる郁美が食料保管庫と冷蔵庫を開けて残った食材を確認して言った。
「陽のあるうちに、買出しをしてきてくれる?杏」
「いいよ」
「僕も一緒に行く!」
理が手を挙げた。
「いいわよ。いってらっしゃい」
杏と日堂仁、理とジャックを見送って、郁美は部屋に戻って鍵をかけた。
ソファーに座り、テレビのスイッチを入れた。ニュースに目をやる。新しいニュースは入っていなかった。ぼんやりとテレビ画面を眺めているうちに郁美はうたたねをした。
何かの気配に気がついて、郁美は目を醒ました。
「杏?」
食料の買出しに行った娘が帰ってきたのだろうか。つけっぱなしだったテレビの時刻表示を見ると、子供たちが出かけてからまだ十五分もたっていない。最寄のスーパーまでは片道二十分くらいあるから、娘たちではない。郁美がまどろみから目覚めたのはコテージの階段を誰かが上ってくる音が聞こえたからだったのだろう。靴を履いているとは思えないようなひらたい足音だった。ゆっくりと一段一段上ってくる。
(靴を履いていない?)
そのことに気がついて郁美はぞっとした。
ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。
コテージの床を踏む音が入口の前までやってきて、止まった。
郁美は目を大きく見開いてドアを見つめていた。
(鍵は?)
かかっている。
コテージのドアノブはレバーハンドルだった。
ハンドルがゆっくりと下に下がっていく。
下がりきったところで強い力がドアにくわえられた。
ドン!
ドアがしなった。
だが、鍵がかかっているからドアは開かない。
外にいる誰かはかまわずにドアを開けようとハンドルを狂ったように上げ下げした。
ガチャガチャガチャガチャガチャ!
レバーハンドルが何度も何度も下がって、上がって、下がって、上がった。
ドン!
誰かがドアにからだをぶつけて開けようとしている。
ドン!ドン!ドン!
「誰!誰なの!やめて!」
両手で耳を覆いながら郁美は叫んだ。
まだ陽が沈んでいないのに!
夜じゃなくても夜叉は跳梁するの?
郁美はひとりになった自分の迂闊さを呪った。
不意に静けさが訪れた。
ドアの前からそのものの気配が消えた。
コテージの三方にはテラスと歩廊が巡らされている。そいつはその歩廊を歩きだした。窓にひかれたカーテンにコテージのまわりを歩くものの影が映った。
ペタ、ペタ、ペタ。
郁美はスマホを取り出した。
手が震えて、きちんとタッチできない。もどかしい思いで電話帳を開く。夫を呼び出そうとしたとたん、窓ガラスが割れる音がした。悲鳴をあげた郁美の手からスマホが転がり落ちた。床にひざまずき、スマホをとろうとした郁美の鼻腔に饐えた匂いが届いた。それは忘れもしない珠子の体臭だった。「お義母さんがバラの世話をしているのは、あの嫌な体臭を消すためよ!」珠子からの精神的圧迫に耐えられなくなった郁美が直人に泣きながら訴えたことのある、あの珠子の体臭だった。そしてそれを裏付けるかのように窓の外から声がした。
「・・・泥棒ネコだね」
郁美は息をのんだ。声は聞きなれたものだった。
(やっぱりお義母さん!)
「ひとりなのかえ?」
嬉しそうな声だった。
「泥棒ネコが一匹だけで留守番かねえ」
泥棒ネコ・・・それは珠子が何度も郁美をいびるときに使う言葉だった。溺愛する息子を自分から奪った郁美のことを珠子はいつも「泥棒ネコ」と呼んでいた。自分の前に直人とつきあっていた女性がこのあいだ珠子に殺されている。自分に向けられる憎しみのレベルは彼女よりも遥かに大きいのは間違いない。
(嗚呼、お願い。誰か助けて。あなた!、杏、理、ジャック!)
この場にいない家族の名を頭に浮かべて郁美はなんとか正気を保とうとした。
ガシャーン!ガシャ!ガシャ!
割られたガラスの穴をさらに広げるために、割れずに残っていたガラスを珠子が素手で次々と割っている。
カーテンにさえぎられて、割られたガラスが床に散乱する。
ガラスの破片にはベットリと血がついていた。
珠子の手がガラスで切れているのだ。あるいは腕も裂けているかもしれない。カーテンにも血痕が飛び散っていた。
「やめて!お願い!やめて!」
郁美の懇願の叫びは、悲鳴にかわっていた。
カーテンが人の形に盛り上がり、はだしの足がガラスの破片が散乱している床にゆっくりと下りていく。
ガシャ!
ガラスを踏み割る音がして、足の裏から血がほとぼしった。
カーテンがめくれて、夜叉の顔が現れた。
郁美は息をとめて、その顔を凝視した。
「待たせたねぇ」
夜叉が嬉しそうに言った。
空を黒雲が覆っていた。普段ならとっくに雪が降っているはずなのに、今年は暖冬のせいか降雪が遅いとスーパーの店員が言っていたが、どうやら雪雲が山の向こうから流れてきたようだ。陽の光が雲に遮られ、あたりが暗くなり始めた。
「仁、急ごう!」
なぜだか胸騒ぎがして杏が仁と理をせかした。言いようのない不安が杏の胸に渦巻き始めている。
コテージに向かって早足になる杏の不安が伝染したのか、仁も理も口数が減っている。空から灰色の火山灰のようなものがひらひらと落ちてきた。
「雪だ」
杏の手のひらに落ちてきた雪が瞬間的に融けていく。寒気が増したようだ。杏が身震いをしたがそれは外気温の低下によるものではないかもしれない。
コテージの姿が見えてきた。
杏は走り始めた。
遠目にコテージの窓からカーテンが翻っているのが見えたからだ。
「窓が割れている!」
杏が叫んだ。
仁が杏に注意をよびかけた。
「杏!ちょっと待て!」
駆け出そうとした杏の肩を抑えて仁が押し留める。コテージの様子がただならぬことに気がついたのだ。理に寄り添うジャックが唸り声をあげた。犬歯がむき出しになり、鼻にシワが寄っている。
「ジャック、おちついて」
理がジャックの背中を撫でる。
仁が先頭になって三人と一匹は、コテージにゆっくりと近づいた。
「ママ!」
杏がコテージに向かって叫んだ。
「ママ!」
何度も母親を呼ぶ。だが、コテージから返事は帰ってこなかった。コテージの階段を上る。大声を出しているのだから、忍び足になる必要はなかった。コテージの窓が割れていた。窓枠に残っているガラスが幾つもの危険な突起を光らせている。ところどころその尖端が血で汚れていた。
仁がコテージの扉を開けようとしたが鍵がかかっている。杏が鍵穴に鍵をさしこむ。扉の外でジャックの首輪を握った理がいつでもジャックをけしかけられるように片膝立ちになっている。
「ママ!どこにいるの?」
杏が叫びながら仁と一緒に室内に飛び込んだ。
コテージ内に悲鳴が響き渡った。杏の悲鳴だった。
「ママ!」
テーブルの上に郁美の顔があった。
恐怖で悲鳴を撒き散らしている顔だった。
首から上が引きちぎられ、まるで大きな果物がもがれて無造作にそこに投げ出されたようにテーブルの上に郁美の顔が転がっていた。部屋中が血の海だった。腕や足や腹が喰われた跡が生々しい頭のない郁美の死体が転がっていた。ジャックが吠え立てたが、室内に郁美の死体以外のものはなかった。
仁のからだが杏の体重をうけて少しよろめいた。
杏が気を失って仁の腕の中で抱きとめられていた。
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