ヤカーの女王

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ヤカーの女王

「日堂晃少尉、久しぶりだな」  空母赤城の軍医が背中を向けたまま日堂晃に話しかけた。 「ここは・・・」  日堂は目の前の光景が現実のものとは思えなかった。邪禍の姥山脳神経研究所に春日直人と有働琢磨らと乗り込んできたのだ。研究所の山道で待ち構えていた夜叉を轢き殺し、病室にいたヤクシャを刑事が撃ち殺し、新庄満がそいつに噛まれて人体発火で焼け死んだ。病室の外にいた三匹の夜叉も刑事と有働が殺した。そして邪禍の部屋に乗り込んできたのだ。ここが赤城であるはずはなかった。しかし、自分が立っている床の感触と四万一千トンの巨艦のゆったりとした揺動は日堂晃に七十年以上前の記憶を蘇らせた。自分はこのあと横須賀で地上勤務になる。赤城はその一カ月後、ミッドウェーで沈む。 「貴様、何をしに来た?」  軍医がゆっくりと日堂に向き直った。  日堂は息を呑んだ。  軍医の目が真っ黒だった。白目の部分が一切ない。瞳が暗黒の闇に覆われていた。 「軍医・・・あなたは・・・」 「日堂晃、貴様はミッドウェーで死ななかったのか」 「ヤカー、おまえは軍医のからだをのっとったのだな!」  日堂が叫んだ。 「七十年以上もたって、あらためて殺されにくるとはよくよく因果の深い奴よ」 「貴様は、あの漁船で漁民をとり殺した」 「少し違うな。疫病を流行らしたのだ」 「そして、この日本に上陸した。軍医の家族も皆殺しにしたな!」 「ここならば、呪術師による悪魔祓いもないからな。わが呪詛『コディウィナ』を一家に、一族に撒き散らすのは楽しかったぞ」  軍医が軍刀に手をかけた。  日堂は、目の前の出来事が現実のものとは思えなかった。  軍医が軍刀を抜いた。 「俺の邪魔をするな」  日堂晃の胸に激痛が走った。  軍医が真っ黒い瞳を日堂にむけたまま、軍刀でその胸を貫いたのだ。  日堂は自分の胸を貫く軍刀をあっけにとられて見ていた。痛みが実感できる。だが、なぜ?これは幻覚ではないのか?恐る恐る軍刀を右手に握った。軍医が刀をすっと引き抜いた。軍刀を握った日堂の指がぽろぽろと切れてこぼれ降りた。小指と薬指、中指のなくなった右手を呆然と見つめた。  目の前の情景が一変した。  日堂晃の前に白衣を来たミイラのように痩せ細った男が立っていた。その瞳は真っ黒だった。男は短刀を握っていて、その刃は血にまみれていた。日堂晃の血だった。 (『カスターネ』で刺されたのか)  日堂は己の不覚を嘆いた。『カスターネ』はスリランカの短剣の名だ。邪禍が握っているカスターネの柄は象牙でできており、そこにはガルーダが彫られていた。  日堂は言葉を発することなくその場に倒れた。  安室に向かって、村松が手を伸ばして助けを求めていた。三匹の夜叉が村松をホームの前方に連れていこうとしている。安室は村松に駆け寄ろうとした。 「動いてはいけない!」  安室の動きを制する力強い声がした。  安室が振り返ると有働琢磨が安室の肩に手をあてていた。そのおかげで安室は足を踏み出さずに済んだ。自分の目の前に短剣がつきつけられていることに安室は気がついた。短剣を握り締めているのは白衣を着たミイラのように痩せ細った男だった。その男の瞳が黒々と耀いている。 「間に合ったか」  有働が言った。 「え?どういうことだ?」  安室が有働の言葉に反応した。 「ヤカーの幻術に惑わされたのですよ。危ないところだった。こいつは同時に複数の人間に幻を見せることができるんです」  そう言って有働は、安室に短剣を突き出している白衣の男の腹から、アンガム・ポラの恐るべき武器を引き抜いた。何本ものムチの先の短剣が男の腹に突き刺さっていた。有働はマントラを唱えながら、男の腹に何度もムチを突き刺していた。邪禍――夜叉の王――ヤカーはそのたびにからだをビクン、ビクンと震わせた。やがて邪禍は床に倒れ、断末魔の痙攣を始めた。 「これで、こいつも終わりです。七十年以上昔にセイロンから日本に渡ってきた夜叉の王は調伏しました」  邪禍の体を見下ろしながら、有働が悲しげに皆に告げた。 「でも、日堂さんは救えませんでした」  有働が背後の床を見て言葉をとぎらせた。安室は床の上に倒れている日堂晃を見た。 「日堂さん!」  日堂のからだをかかえあげたが、老僧侶はすでにこときれていた。右腕の指が数本なかった。指は床に落ちていた。 「日堂さん!」  直人と新庄もそれぞれの幻覚から醒めたようだ。日堂晃の遺体と邪禍の死体をかわるがわる見比べていた。 「『キャピーマ』が終わったのですか?」  直人がスリランカの悪魔祓いの名を口にした。 「はい」有働が答えた。 「ここは?」 「火をつけます。浄火の炎で穢れを祓いましょう」  有働と直人、安室、新庄は悪魔の巣窟の部屋をすべてあらためた。誰も何もいないことを確認すると有働が邪禍の部屋に火をつけた。火はカーテンや天井に燃え移り、徐々に火勢をあげていった。敷地内は広く、洋館と周囲の樹木の間にはたっぷりとした距離があった。山火事になる恐れはなさそうだ。  やがて洋館は紅蓮の炎に包まれた。 「ここでヤカーを滅して、配下の夜叉を五匹殺しました。ですが、春日さん、まだ一匹、夜叉が残っているんですよね?」  有働の言葉に直人は苦しげに頷いた。 「ええ、私の母、珠子の夜叉が残っています」 「どういうことでしょう。今日、邪禍は我々を待ち構えていたように見受けられますが、一匹だけ好きにさせていたということですかね」  判断がつきかねるという表情で有働が頭に浮かんだことをそのまま口にしたようだった。 「邪禍は我々がここを襲うことを知っていた?」 「手段はわかりませんが、状況から鑑みると、どうやらそのようです」 「と、いうことは邪禍は我々がどこからやってきたかも知っていた可能性がある?」  直人の顔色が蒼ざめていた。直人は恐ろしいことに気がついた。 「嫌な予感がします・・・」  有働も直人の頭に浮かんだ不吉な予感に気がついた。  直人がスマホを取り出そうとしたまさにそのとき、直人のスマホが鳴った。 「はい?」  発信者が不明だったので、直人は慎重に電話に出た。だが、耳に飛び込んできたのは日堂仁の悲痛な叫び声だった。 「おじさん?日堂仁です!」 「仁君?どうしたんだ」  仁の祖父が亡くなったことが頭をよぎり、どのようにそれを伝えようかと考えた直人に仁が凶事を告げた。 「おじさん!おばさんが襲われました!」 「なに?」 「僕たちが買い出しに行っている間にコテージが夜叉に襲われたみたいなんです!おじさんのお母さんの夜叉だと思います!」 「本当か?」 「ええ!」 「それで郁美は?おばさんはどうしている!」  直人は胸中に膨れ上がった不安を必死になっておさえつけて仁に噛み付くように叫んだ。 「おじさん・・・おばさんは・・・」  電話の向こうで仁が鳴き声になった。直人は目をつぶった。 (嘘であってくれ!この電話も何もかもすべて現実のことではないと、誰か言ってくれ!) 「おじさん!おばさんは・・・おばさんは殺されていました!ごめんなさい、ごめんなさい、俺、おばさんを守れなくって!俺、俺・・・」 「仁君!落ち着け!落ち着いてくれ。それは間違いないことなのか?」  直人の祈りは通じなかった。 「間違いありません!ぼくは今、百十番をかけたばかりです。もうすぐ警察がやってきます。あ、サイレンが聞こえてきました」  スマホの向こうで緊急車両のサイレンが近づいてくる音が聞こえた。直人の頭は真っ白になっていた。何を考えればいいのか、何を言えばいいのか、何も思いつかなくなってしまった。直人の尋常でない様子に気がついた安室が直人からスマホを取り上げて自分の耳にあてた。 「この電話は誰がかけている?」 「あ、僕です。日堂仁です」 「俺は刑事の安室だ。どうした?何があったんだ」  仁の返事を聞いて、安室が呆然とした顔となって直人の顔を見つめた。 「それで、そっちにいる他の連中は無事なのか?」  安室の言葉を聞いて、直人の顔にさらなる恐怖が浮かんだ。 「杏は?理は?安室さん、子供達は無事ですか?」  直人の悲鳴のような問いに安室がゆっくりと大きな声で言葉を返した。動転している直人にもしっかりと聞き取れるようにとの配慮だろう。 「ああ!無事だ。今、警察に保護されたらしい」  受話器の向こうで「ひでえな、これは」という叫び声があがっていた。現場にかけつけた警官たちの声らしい。春日家はこれで二回目の凄惨な殺害現場に遭遇したことになる。二回目の今回は前回とは比較にならないほどの衝撃を直人にもたらした。安室の耳に届く電話機の向こうの緊急車両のサイレン音がひときわ大きくなったようだ。救急車もかけつけたのだろう。 「仁君、そばにいる警察官にかわってくれないか?」  安室が現場に駆けつけた警官と話を始めた。その姿を空ろな表情で見ていた直人は、とうとうその場にくずおれてしまった。 「郁美!」  妻の名を何度も叫びながら、直人は涙を流さずに慟哭した。 「急いでコテージに戻りましょう!」  スマホを直人に返して、安室は皆に言った。
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