ヤカーの女王

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ヤカーの女王

 郁美の死体は検死解剖にまわされていた。直人がコテージに戻ったときには杏の意識はまだ戻っていなかった。日堂仁は小学生の理を現場に入れさせなかった。母親の惨い姿が理の一生消えないトラウマになるかもしれないと思ったのだろう。直人は仁の判断に深く感謝した。杏が目をさましたらどうなるか不安で仕方がなかったが、直人は仁に伝えなければならないことがあった。 「おじさん、おじいちゃんの姿が見えませんけど、何かあったのですか?」 「仁君、すまない。君のお爺ちゃんは悪鬼に殺されてしまった」  仁の顔が凍りついた。 「おじいちゃんが?」 「悪鬼の親玉と対峙したんだ。みんなが幻覚を見せられているうちに、君のお爺ちゃんは邪禍に短剣で刺されてしまった」  直人の言葉が仁には正しく聞き取れていないようだった。空ろな顔の仁の肩に両手をあてて直人は言った。 「気をしっかりもってくれ。お爺ちゃんの最期は立派なものだった」  郁美の死に動揺している直人だったが、高校生の仁の精神状態を平静に保つよう努めることで、自分の意識を現実からしばらくそむけることができた。  仁は珠子のことをよく知らないようだったが、杏からアルツハイマー型の認知症が進行して家庭内で酷いことをしでかすようになっていたという話を聞かされていたのだろう。杏の母親を惨殺した夜叉を酷く憎み、その殺害を防げなかったことを悔んでいたようだった。しかし、直人から晃の死を聞かされ、珠子の死よりも肉親の死のほうがより当事者感覚を持たせたようだった。  春日家の父と娘、長男は病院に運ばれた。直人は杏の寝ている病室にベッドを運び込んでもらい、理をそこに寝かせると、一晩中、つきっきりで見守ろうとしたが、深更、刑事が現れて警察署に同行を求められた。娘に厳重な警護を頼むと刑事はうけあってくれたので、警官の姿を確認したあと病院を後にした。  コテージには警察の現場検証が入り、立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされていた。  安室や有働、新庄明彦は近くのホテルに泊まることにしていたが、彼らも警察署に集められた。  新庄明彦は息子を失い、日堂仁は祖父を失った。春日直人は妻を失い、ヤカーの本拠を強襲したメンバーはそれぞれに喪失感をかかえることになった。さらには、警察にどのように事態を説明するか、かなりこみいったことになりそうだった。 「隠し立てをしても、ひとつひとつの嘘は結局矛盾を生み出し、俺たちのやったことを隠しおおせるものじゃない」  安室はそう言ったが、「正直に話したって、精神鑑定をうけさせられて病院送りになるのがオチだ」とも言った。いずれにせよ皆、正直に話すことにしようということになった。全員が警察でひとりひとり取調べを受けた。警察は証言の裏を取り始めたが、さっそく証言と現実の食い違いに直面することになった。  山奥に向かった警察関係者は、姥山脳神経研究所の焼け跡を発見することができなかった。  そこにはかつて広壮な洋館が建っていたという痕跡がまったくなかった。山道の突き当たりにあるはずの直人たちがこじ開けた鉄扉も消えていた。樹林を切り開いたと思われる平地に、日堂晃と新庄満の死体が発見された。死因は、直人たちが話したとおりだったが、凶器は発見されなかった。  直人の家が珠子の夜叉に襲われたとき、管轄の警察署の刑事が姥山脳神経研究所に出向いてとった事情聴取の記録が残されていたが、今となってはそれが本当のことだったのか首をかしげざるをえないことになってしまった。姥山脳神経研究所が消えてしまったことで、現場に残されていたはずのヤカーや夜叉の死体は発見できず、直人たちの証言は根底からその真偽が疑われることになった。日堂晃や新庄満の殺害に関与している可能性は当然のように捜査関係者の間で共有され、執拗な取調べがなされたが、証言者たちの口述は現実的に証明不可能なものに終始した。しかも関係者全員の証言はほぼ完全に一致していて整合性がとれていた。個別の取調べでの結果だから口裏あわせをしていたとも思えなかったし、事前にそれを行っていたとしても、何かしらの綻びは出てくるものだということを捜査関係者は知っている。警察と検察は頭をかかえていた。春日郁美殺害現場に残されていた血痕のいくつかは加害者のものと思われた。全員のDNA鑑定が照合されたが一致せず、直人の主張で春日家に派遣された捜査員が持ち帰った珠子の私物から採取されたDNAと一致した。しかし、それによって捜査が進展することはなかった。かえって混迷を増したといえる。春日珠子が姥山脳神経研究所に入院していたという記録は前回捜査で残されていたが、その研究所が消失してしまっていては、捜査の進めようがなかった。  春日家が何者かによって襲撃され、その際、警官が一名惨殺されている。その事件の手がかりもまったくなく、町内の園芸家殺害事件との関連が疑われていたが、こちらの捜査もまったく進んでおらず、今回の事件も八方ふさがりになりかけていた。春日家には何かがありそうだと捜査関係者は漠然とした疑いをもったが、それがスリランカから七十数年も前に日本に渡ってきた悪鬼によって人間が夜叉に変化させられ、人を喰い殺して回っているなどという非科学的な話を前提に捜査を進めることなどできようはずもなかった。近代の科学は、直人たちを守るために機能はしなかった。  邪禍を襲った全員が不起訴処分となり、警察の取調べから解放されるまで杏と理とジャックの面倒を見たのは日堂家だった。死んだ日堂晃が息子の住持である日堂保に委細を話していたので警察とは違って、皆が直面している怪奇現象を現実のものとしてうけとめる素地が整っていた。コテージに残っていた仁らは比較的早い段階で身柄が解放され、いまだにショック状態から抜けきれない杏の身を案じて、寺で預かることになったのだ。  日堂家の寺を直人と有働が訪れたのは桜が咲きはじめた頃だった。まだ三分咲きといった桜を見上げる直人の目は空ろだった。精神的に立ち直っていないのだ。安室や新庄とは後日連絡をとりあうことを約していたが、残った夜叉は珠子の変化したアブータ・サンニヤのみで、人間だった頃に接触のなかった新庄を珠子が襲うとは思えなかったから、別れ際、直人は新庄とはもう二度と会うことはあるまいと思っていた。安室は、珠子との直接的なかかわりはなかったが、自宅が襲われたとき、管轄の警察署に危急を伝えたのが安室だったから、死んだ邪禍から珠子が何かを聞いている可能性はあったが、あまり心配はいらないように思われた。  杏の身を案じて寺までついてきた有働琢磨に、直人は篤く礼を言った。 「まだことは終わっていません。夜叉が一匹残っていて、あなたたちをつけねらっています。私はこいつを仕留めるまではあなたたちの身辺を離れるつもりはありません」  直人にとっては心強い助言の言葉を口にして有働は、ムチのような武器に触れた。銃刀法にひかっかるものではないと警察で判断され、返却されたのだ。尖端に結わえ付けられた短剣についていたはずの邪禍や夜叉の血痕はなぜか検出されなかった。研究所の消失とともに、この世に夜叉たちが存在した痕跡がどうやらすべて消え失せてしまったようだ。 「杏、家に帰ろう」  ショックのせいで言葉を失ってしまった娘を抱きしめて、直人は日堂家の人々に礼を言って寺を出た。 「有働さんの部屋も用意しますので、一緒に生活をしていただけますか」 「屋根があるだけで十分です。どのような部屋でも大丈夫ですから、あまりお気遣いなきよう」  有働はそう言ったが、春日家に入るなり、案内もされずに家中を見て回り、ぶつぶつとマントラを唱えながら珠子が使っていた部屋に入った。 「ここが、あなたの母上が使っていた部屋ですね」 「はい。やはりわかりますか」 「かなり強い怨念の残滓を感じます。あなたの母上はとても強い業をもっておられたようですね」  それこそが邪禍に目をつけられた理由なのだろうと思いながら、直人は有働の言葉に首肯した。 「パパ、お姉ちゃんが呼んでいるよ」  理が直人の手をひいて言った。  直人は、杏の部屋に入った。ベッドに横になっていた杏が半身を起こしていた。 「杏、起きても大丈夫なのか」  直人の問いかけに杏が弱々しく頷いた。 「パパ・・・」  直人は杏のベッドに、杏の隣に腰掛けた。杏が直人の胸にすがりついて泣きじゃくった。 「よかった。しゃべれるようになったんだな」  杏が直人の胸の中で小さな顎を何度も胸につけた。 「パパ・・・ゴメン・・・私・・・ママを・・・」 「何も言うな。おまえが謝ることじゃない。おまえはこれっぽちも悪くないんだ」  早くこの娘から忌まわしい記憶が無くなって欲しい。直人はそのことを強く念じた。しかし、それには時が必要だし、時によっても記憶が無くなることはあるまいとも思っていた。直人は杏が不憫でならなかった。娘は母親と仲がよかったのだ。突然、直人の中に母、珠子に対する強い殺意が生まれた。そうなのだ。まだ春日家にとっては何も解決していないのだ。珠子だった夜叉は健在だ。いつまた自分たち親子の前にその醜い姿を現すかわからない。同居してくれている有働琢磨の存在は心強かったが、有働とて万能ではない。自衛の備えを強化しなければならない。直人は亡き妻に誓った。残された娘と息子は必ず守り抜くと。  郁美の葬儀は家族葬にした。  身内だけでおくる。  変死のわけを知っているのは家族のみで、世間では春日家に何がおこったのか、興味本位を露わにしていた。そんな連中に妻を見送らせるわけにはいかないと直人が決めたのだ。葬儀が終わってから近所の知り合いが数人、線香をあげに家を訪れたが、やってきた人々は春日家のかわりように驚いた。昼でも雨戸を閉めるようになった春日家が、陰鬱な空気に満ちた幽霊屋敷のように感じられたからだ。
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