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ヤカーの女王
安室は私的な捜査活動について上司からたっぷりとお灸を据えられ、夜遅くなってから警察署を後にした。
五十歳を越えても所帯を持たず気ままな一人暮らしだったから、今回のような事案でも好きに動き回れる。自分の部屋へ帰る前に焼き鳥屋に寄って軽く一杯ひっかけた。久しぶりの酒が酔いを誘ったが、一軒だけでは飲み足りず、もう一軒のれんをくぐった。さらにもう一軒。アルコールに焦点がぼやけはじめた安室の目が路地裏にあるバーの看板に吸い寄せられた。魅入られたように看板の前まで千鳥足で向かい、バーの扉を開けて店内に入った。
「いらっしゃいませ」
店内は狭かった。
カウンターが一本きりで、スツールが四つ。バックバーを背にしてタキシードを着た女が一人立っていた。
「どうぞ」
女が暖かいタオルを差し出した。それを受け取った安室は店内に漂う饐えた臭いに気がついた。
「換気があまりよくねえな」
小鼻に皺を寄せながら店内の臭いを嗅ぐ安室に女のバーテンダーがうつむいたまま謝った。
「申し訳ありません」
「まあ、いいさ」
「お客さん、ウチは初めてですね」
「ああ。看板がちょいと目についたもんでね」
「何をお召し上がりになりますか?」
「何でもいいや、酒に詳しいわけじゃねえんだ。適当なのを出してくれ」
女が安室に背をむけて、バックバーの酒を選んでいる。
「お待たせしました」
出来上がったカクテルがショートグラスに注がれ、安室の前に出された。そのグラスを傾けた安室がバーテンダーに声をかけた。店に入ってからバーテンダーの顔をしっかりと見ていないような気がする。ライトの影に入ったり、うつむいたり、背をむけていたりで安室と正面から向き合っていなかったのだ。
「これは何て名の酒だい?」
安室の質問にバーテンダーが答えた。ランプシェードの傘が邪魔で女の顔が隠れている。
「『ステュクス』と言います」
「なんだ、それ?」
「川の名前にちなんだ当店のオリジナルカクテルです」
「ステュクス川ってのか?」
「そう」
店内の饐えた臭いが強くなった。
(あまり居心地のいい店じぇねえな)と思いながら安室はバーテンダーに聞いた。
「どこにある川なんだ?」
「お知りになりたいですか?」
「教えたくないってのならば、いいよ言わなくて」
そんなこと、と小さく呟いた女の口調が急にかわった。
「すぐにあんたが渡ることになる川の名前さ」
女の口調の変化とともに店内の饐えた臭いがさらに強くなった。
「なんだそれ?」
女が顔を上げた。安室は女の顔を凝視した。酔いが回っている安室だったが目の前の顔には見覚えがあった。最初、バーテンダーが般若の面をかぶってふざけているのだと思った。だが、その顔を見ているうちに急激に酔いが醒めた。
安室は叫んだ。
「貴様!」
女の顔は面ではなかった。口が裂けて目に憎悪の炎が燃え上がっている。角と牙、どちらも最近何度も見たものだった。あまりに見慣れすぎて恐怖感すら薄らぐほどだった。
携行している銃のホルスターに手がいった。
夜叉がカウンターを飛び越えて、安室につかみかかってきた。
狭い店内で自由に動けない。
安室の両手が夜叉の手につかまれ、恐ろしいほどの力でねじ切られてしまった。安室の口から絶叫がほとぼしった。
「三途の川で溺れ死ね!」
それが安室が最後に聞いた言葉だった。
夜叉はそう叫ぶと安室の顔にかじりつき、頬の肉を喰いちぎった。顔面の相貌筋が露わになり、安室の顔が誰にも判別できないものになった。
ボリボリ、パキ、ボキボキ、クチャリ
軟骨を噛み砕くような音が店内に響き渡り、夜叉が喜悦の叫び声をあげた。
「邪魔をしてくれたよねえ!何度も!何度も!お礼に美味しくいただいてあげるよ!」
夜叉がすでに息絶えている安室のからだのあちこちに喰らいついた。
関係者が次々と死んでいく。
直人はニュース報道を見ながらあらためて自分が巻き込まれたこの世のものとは思えないおぞましい世界の呪いに身震いをした。
安室の見るも無残な死体が発見されたのは、人通りの少ない路地裏のつきあたりだった。なぜそんなところに入り込んだのか不明だが、直人にはなんとなく察しがついていた。また現れたのだろう。自分が邪禍と出会うことになったバーが。あのバーも姥山脳神経研究所もヤカーによる幻想の産物だろうと直人は思っていた。だが、邪禍はすでに滅んでいる。ということは別の何者かが幻術を行使しているということになる。それは夜叉族唯一の生き残り、珠子以外にはありえない。ということは珠子があらたにかつての邪禍の座についたいうことなのか。ヤカーは引き継がれていくものなのかもしれない。珠子が新しい夜叉族の王、いや女王になったのか。
直人の奥歯がきしんだ。
そんなことは絶対に許さない。珠子は俺が殺す。直人はいまや珠子の襲来を待ち望んでいる自分に気がついていた。同居している有働琢磨はそんな直人を傷ましい目で見ることがある。有働も珠子の襲来を待ち構えているのだ。たぶん有働は直人に母殺しの役回りを果たさせたくないのだろうと直人は思っている。直人はそんな有働に話をもちかけた。
「私が囮になります。夜叉をおびき出すことってできないでしょうか」
覚悟を決めている直人の顔を見つめながら有働がためらいがちに答えた。
「私も同じことを考えていましたが、懸念があるのです」
「そうですよね」
直人も有働と同じ懸念を抱いている。邪禍の本拠地を襲ったときのように留守を狙われて子供たちが危地に陥ることがないだろうか、ということだった。すでに安室もいない。子供たちを預けて少しでも安心できる存在が思いつかないのだ。
「杏ちゃんと理君をどこかに匿えればいいのですが・・・」
と言って、直人も有働も子供たちと一緒に行動をしたくはなかった。珠子を殺すときの凄惨な現場を子供たちには見せたくはなかったからだ。
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