ヤカーの女王

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ヤカーの女王

 春日直人(かすがなおと)は鍵をゆっくりと回した。  時計の針はすでに深夜を過ぎている。  職場の部下たちと仕事の打ち上げで飲んで遅くなってしまった。  三次会までつきあう必要はなかったな、とアルコールがまわり、かすみのかかったような頭の片隅で後悔が生まれていた。  鍵の音で家人が目覚めるとは思っていないが、多少の罪悪感があったので音を立てたくなかった。 「カチャリ」  開錠の音がかすかにしたが、直人の耳にはとてつもなく大きく聞えた。  ゆっくりとドアを開ける。  感熱式の自動照明が直人の体温を感知し、玄関照明がついた。  忍び足で廊下を歩き、ダイニングキッチンのドアを開ける。  「お帰りなさい」  妻の郁美(いくみ)がそこにいた。  直人はびっくりした。  郁美はダイニングテーブルに座って、直人の顔をじっと見つめている。 「あ、びっくりした!」  悪いところを見られたような後ろめたさを感じながら直人は「ただいま」と言った。 「飲んできたのね」 「電話しただろ。一仕事が終わった打ち上げを課の連中としてきたんだ」  スーツ姿のまま、郁美に向き合うように腰をおろした。そうせざるを得ない雰囲気だったからだ。 「どうしたんだ。寝ていてくれと電話で言っただろ」  直人の問いに答えず、張り詰めた表情で郁美は言った。 「私、もうこれ以上お義母さんの面倒は見切れません」  アルコールがまわっている直人は、今、その話をしたくなかったが、妻の表情にただならぬものを感じて居住まいをただした。 「わかった、ちょっと水をくれないか」  コップを受け取り、一息で水を飲み干し、荒い息を吐く。 「なにがあったんだ」 「今日、お義母さんから泥棒猫って罵られました」 「泥棒猫?」 「私がお義母さんの部屋に勝手に入って、お義母さんの服を盗んだってものすごい剣幕で責められたの」  そうとう酷い言葉で罵られたのだろう。郁美の顔がこわばり、涙が浮かんでいる。 「服がなくなっていたのか?」 「わかりません。お義母さんの服がどれだけあるかなんて、私にはわからない」 「おまえは何もしていないんだろう?」 「あたりまえじゃない!」  体型も違う郁美が老齢の母、珠子(たまこ)の服に手を出すはずもないし、万が一そういうことがあるとしたら声をかけているだろう。そんなことは直人にもわかる。  もともと、直人の母親、珠子は郁美を嫌っている。  いや、郁美だけではない。珠子は直人が接する自分以外の女すべてを嫌っていた。
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