ヤカーの女王

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ヤカーの女王

「それでは、有働さん杏と理を宜しくお願いします」  直人が玄関で、見送りに出た有働と杏と理の顔を順番に見やった。 「パパ」  杏が直人に心配そうな顔を向けた。その頭をくしゃくしゃとかきまぜながら直人はつとめて明るく答える。 「心配するな。貯えはそこそこある。当分の間おまえたちが食うに困るようなことにはならないよ」  その日、直人は最終の出勤日を迎えていた。この世のものとは思えぬ奇禍に巻き込まれたとはいえ、日常がなくなるわけではなかった。世の中は春日家の抱え込んだ災厄をまったくのひとごととして今までどおりにまわっていた。当初は有給を消化しながら会社を休んで事態に対処していた直人だったが、それにも限界があった。これ以上、会社に迷惑をかけることはできないし、出勤という自分の不在時間を子供たちにおしつけることには恐怖を感じ、これ以上は無理だと思い極めた直人が辞職願を会社に送り、電話で上司と人事と話しあい、退職日を決めていたのだ。それが今日という日だった。 「帰ってきたら、みんなで外で美味しいものを食べよう」  直人が杏と理をかわるがわる見ながら微笑んだ。 「何が食べたい?」 「僕はハンバーグ!」 「私はパパが食べたいものがいい」  父親想いの娘の言葉ににっこりと笑いながら直人は「じゃあ、帰ってきてからどこに行くかを決めよう。遅くはならないから」そういい残して家を出た。  会社では後任人事も発表されていた。会社の誰もが直人の身にふりかかっている不思議な、ワイドショーネタになりそうな出来事を噂話程度には知っており、で、あればこそ、真実がわからぬまま、どう声をかけていいのか戸惑いながら直人を遠巻きに見ているような雰囲気があった。 「お世話になりました」 「お元気で」 「頑張ってください」  お定まりの別れの言葉を交して、直人は二十数年間をすごした会社を後にした。予定された人生の節目を迎えた退職ではなかった。そのせいか感慨も寂しさも沸いてこなかった。これから先の生計の不安も少しはあったが、それ以上に決着をつけなければならないことへの覚悟の方が強かった。  オフィス街から最寄駅に向かい、家路についた。家を空ける時間は寸刻といえども縮めたかった。  地元駅で降りて家に向かった。  あちこちで満開の桜が咲き誇っていた。 (そうか、また季節がひとつ進んだんだな)  一木すべてが薄いピンクの花に覆われている。それが何本も連なって、年に一度きりの景観を見せていた。 (よく考えてみれば、桜という花も面白い木なのだな)  桜並木の向こうに直人は、自分に向かって微笑んでいる女の姿を見た。  それは、亡くなった妻の郁美だった。 (まさか?)  目を凝らして見ると、確かに郁美だ。郁美が直人に向かって微笑んでいる。直人の足が郁美に向かって歩を進めた。直人が近づいてくることがわかると郁美はゆっくりと背を向けて歩き出した。直人の足の運びが早まった。郁美はゆっくりと桜並木の中を歩いている。白昼の幻だろうか。気がつけば周囲に人の姿がなくなっている。もとより住宅地の昼下がりだ。人影は少ない時間だろう。だが人っ子ひとりいないというのは普通ではなかった。 (出たな、夜叉めが。まさか俺がむざむざと貴様の姦計に騙されるとでも思っているのか)  直人は目の前の郁美が夜叉の変化であると信じて疑わなかった。そしてそんな浅いたくらみで自分をおとし入れようという珠子の夜叉を侮蔑した。鞄の中に手を入れて、郁美の死のあと購入していつも忍ばせているナイフの柄をつかんだ。鞄の中でナイフの刃を覆っている鞘を抜く。刃渡りが二十センチのアーミーナイフだった。もちろん銃砲刀剣類所持等取締法違反である。所持はできるが刃体の長さが六センチをこえる刃物を業務その他正当な理由による場合を除いては携帯してはならない、とされている。直人は法令違反をしていることを十分に認識していた。 (それにしても・・・)と思う。  珠子は一人息子の自分を溺愛していたのではなかったか。その自分を殺すつもりなのは間違いないが、アルツハイマー型認知症の症状が進んで、自分のことを息子だと認識できなくなってしまったからなのだろうか。そういえば、息子の理を俺を勘違いしていたものな。だが、もうこれで終わりにしてやる。お袋は俺が始末する。郁美の無残な最期の姿が脳裏をよぎった。珠子に対する殺意がごりっと音をたてて高まった。  直人の足の動きが速くなった。  郁美との距離がどんどん詰まる。  郁美が立ち止まって、直人に向かってゆっくりと振り返った。  郁美の顔がぼやけて、目鼻立ちがかわっていく。みるみるうちにその顔が珠子のそれになり、そして夜叉の顔に変った。 (殺す!)  直人が走り出した。  鞄を投げ捨てる。  手にはアーミーナイフが握られていた。  夜叉が手を広げて直人を待ちかまえている。  直人は策を弄さず、ナイフを抱え込みながら、夜叉の胸元に飛び込んだ。  ナイフの刃を水平にして夜叉の胸倉に突き刺した。  ナイフが深々と突き刺さる。  だが、直人の手にはそれらしい感触が伝わらない。  人をナイフで刺すと、あまりにやすやすと刃が人体にすいこまれるので、実感が持てずに思わず何度も刺してしまうという話を聞いたことがある。それか?と直人は刹那に思った。  だが、刺した夜叉のからだから発した異音に直人は危険を察した。  聞きなれた、というよりは必ず何度かは聞いたことがある音だった。  それは羽音だった。  危険な生物の羽音が一斉に直人の周りを飛び交った。夜叉のからだだと思っていたのは、スズメバチの集団だった。  直人がナイフを刺した瞬間、無数のスズメバチが夜叉の姿から、黄色と黒の警戒色を散りばめた個々の姿に変化して直人に襲いかかった。直人は悲鳴をあげていた。髪の毛の中にもぐりこんだスズメバチがところかまわず針を突き刺す。悲鳴をあげて開いた口の中にも飛び込んできた。喉の中にもぐりこんだスズメバチが直人の食道と気道を刺しまくった。悲鳴すらあげられず、直人は喉をかきむしる。その手にも顔にも首筋にもスズメバチが群がっていた。直人のからだがスズメバチに覆われた。それはスズメバチに覆い尽くされた人の形をした恐ろしいオブジェのように見えた。くるくるとオブジェが狂ったように踊り、地面に倒れた。ハチが飛び去ったあとには顔といわず、手といわず、露出しているすべての皮膚がぶつぶつと赤く腫れ上がった死体が残された。  一陣の風が吹きわたり、満開の桜の花びらをさっと散らしていった。花びらが地上に倒れた直人のからだの上に舞った。直人の上では桜の花が狂気を秘めたように咲き誇っていた。
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