ヤカーの女王

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ヤカーの女王

 警察からの通報をうけ、病院にかけつけた杏と理と有働琢磨有は、ベッドの上に横たわっているイモ虫のように膨れ上がった遺体に対面した。 「パパ!」  杏は一言そう叫ぶと顔面蒼白になって震えだした。その手を握る理も見るも無残な父の遺体を前にして言葉を失っていた。 「帰ってきたら美味しいものを食べに行こうって言ってたじゃん!」  杏が嗚咽をもらしながら、叫んだ。 「パパが好きなもの食べに行こうって言ったじゃん!」  杏が遺体にすがりついて号泣した。拳をかためて遺体をたたき始めた。 「ママも死んじゃった!パパも死んじゃった!私と理はどうすればいいのよ!」  有働琢磨はその姿を傷ましそうに見ていた。かける言葉が浮かばないようだった。  理が姉の背中にとりついて、泣き始めた。 「お姉ちゃん、僕たち、僕たち、パパもママもいなくなっちゃったの?」  杏は直人の遺体に顔を埋めて泣いている。嗚咽がとめどなく漏れていたが、時折、ぶつぶつと呟きを漏らしだした。その呟きがだんだん大きくなり、有働の耳にも聞き取れるようになっていく。 「許さない」  杏が呟く。 「ばばあ」 「許さない」  杏が泣き止んだ。涙は溢れていたが、嗚咽は止まった。杏の目が直人の胸から顔に向かって睨みつけるような鋭い眼差しになった。 「ばばあを殺す」  杏が呟く。 「ばばあを殺してやる」 「ばばあ、待ってろ!おまえを必ず殺してやる!」  杏の叫びが遺体安置室にこだました。その顔がごりっと怖いものになった。  杏が理のからだを抱きかかえて言った。 「理!」 「理!」  理が恐ろしい形相になった姉を見ている。怖がりもせずに姉に頷いた。 「殺すよ!あのばばあを!」  杏の叫びに理も同じ言葉を叫び始めた。 「ばばあを殺す!」 「そうよ!あのばばあを殺してやる!」 「ばばあを殺す!」  杏と理はもはやそれだけが、人生の目的となったかのように同じ言葉を繰り返し叫んでいた。  検死解剖を終え、帰ってきた春日直人の葬儀をとりしきったのは日堂保だった。保の寺は春日家の菩提寺ではなかったが、空いている墓所に春日家の墓を作らせてくれと杏に申し出た。  杏は保の善意に感謝の言葉を伝えたが、祖母の珠子の名を墓に刻むことは頑なに拒否した。事情を父の晃から聞かされていた保はその言葉を尊重した。  警察から直人の正式な死因が伝えられ、現場で直人のそばに落ちていたアーミーナイフには直人の指紋が残されていたが、直人がそれを何のために持ち歩いていたのかは謎とされ、ナイフは証拠品として警察に留め置かれた。  日堂仁は毎日、杏に会いにきた。憔悴しきった杏の顔を見て仁は言葉を失った。杏の相貌が以前とまったく変ってしまっていた。頬が落ち窪み、目だけがギラギラとあたりを見回している。 「杏・・・」  仁の前で杏はぶつぶつと呟きを漏らしている。 「殺す」 「ばばあを殺す」 「有働さん?」  一緒に暮らしている有働琢磨の顔を見た仁に有働も困ったような顔で言った。 「ショックが強すぎたんだろう。あたりまえだ。母親の首なし死体と千切られた首を見たと思ったら、今度はスズメバチに全身を刺された父親の死だ」  検死の結果、直人の死因は大量のスズメバチに襲われたことによる蜂毒がひきおこしたアナフィラキシーによるショック死とされた。だが、周囲にはそれだけの数の蜂を収容する蜂の巣は発見されず、直人を襲ったスズメバチがどこから来たのかは不明のままだった。 「とにかく、かかわりあいになった以上、俺はこの子たちの面倒を当分みるよ」 「そのあとは?どうするんです」 「今は何もいえない。君も知っているだろう?夜叉のことを」 「ええ」 「君は信じられるかい?」 「僕は信じています」 「そうか。この子たちは間違いなく夜叉に狙われている。すくなくともその夜叉を滅ぼさない限り、この子たちは安心して生活できないからね」 「何かお手伝いできることはありませんか」 「毎日、様子を見にきてくれているだけでもありがたい。杏ちゃんが元のように明るい笑顔を取り戻すまで、大変かもしれないけど、彼女を宜しく頼む」 「夜叉は相当執念深いみたいですね」 「君もニュースを見たのかい?」  有働が言ったニュースとは、新庄明彦が獰猛な獣に襲われて喰い殺されたようだというテレビ報道を指していた。 「新庄さんは、この家の珠子とは何の接点もなかったはずなのに・・・」  珠子を、夜叉を、憎む気持ちは仁にもたっぷりと芽生えていたから、春日家の老婆の名を呼び捨てにすることに躊躇いはなさそうだった。 「どうやら、邪禍の代わりに珠子の夜叉がサンニ・ヤカーの地位につきそうなんだ」 「はやく滅ぼさなければなりませんね」 「それは俺にまかせてくれ」  二人の会話に出てきた『珠子』と『夜叉』と『サンニ・ヤカー』という言葉に反応したのか、杏が目をかっと見開き、叫び声をあげた。 「殺してやる!ばばあ!」 「落ちつけ、落ちつけ杏、ここに夜叉はいない」  仁が杏を宥める。 「最近は杏ちゃんの憎悪の念が理君にも伝染したみたいで、理君も夜叉を殺したがっているんだ」  有働がほとほと困ったというように首をふって仁に姉弟の近況を語った。  肩に置かれた仁の手のぬくもりに気がついたのか、憤怒の表情を浮かべていた杏の目に理性の光が戻った。 「仁?」 「よかった。俺がわかるか杏?」  杏の顔に安堵と喜びが浮かび、次いで恐怖の表情にかわった。 「仁!駄目よ!何をやっているの?」 「え?何を言っているんだ杏?」 「ここに来ちゃ駄目!私に近づいちゃ駄目よ」 「なんだって?」 「わからないの?夜叉に襲われるって言っているのよ」 「杏?」 「あいつは、少しでも自分にかかわった人たちを殺しまくっているのよ。あなたも夜叉の標的になっているに違いないわ!」 「え?」 「私にはわかるのよ。だから仁、私に近づいちゃ駄目。それにもっと警戒しないと」 「わかった。おまえの警告は肝に銘じておく」 「そうだ。俺も迂闊だった。新庄さんも襲われたんだ。仁君、君の身も安全とは言えないかもしれん」  有働が杏の言葉を肯定した。 「そうよ!有働さん、お願い。私たちなんかよりも仁を守ってあげて!」  杏が有働の手にすがって頼んだ。 「あいつは仁を狙っている!私にはわかるの」 「まあ、おちつけって杏、わかったから。俺ももうちょっと慎重になる。約束するよ」 「きっとよ」  杏が仁の手を握った。 「ああ、きっとだ」  仁が有働に向き直って言った。 「しばらく俺も出歩くのを避けて、寺に籠もることにしたほうがよさそうですね」 「そのようだ。杏ちゃんの言葉を信用しよう」  日が沈む前に仁は帰っていった。  その後姿を杏はいつまでも見送っていた。
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