ヤカーの女王

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ヤカーの女王

 杏と理は同じ部屋で眠っている。理のふとんのそばにはジャックが身を丸くして眠っていた。  有働はそれが日課で二人が深い眠りにつくまでは、部屋の片隅にソファーを置いて座っている。  真っ暗な部屋の中で不意にジャックが顔を上げた。  有働がその気配に気がついた。  ジャックが低い唸り声をあげた。 「うるるるるる」  唇がめくれて、牙がむき出しになる。 「どうした?ジャック」  有働が小さな声でジャックを宥めようとする。部屋の明かりがついた。照明はリモコンで操作ができる。杏の手が上がっていた。その手に照明のリモコンが握られている。有働の闇に慣れた目には明かりがまぶしく映った。  杏と理がほぼ同時に目を開けた。  ふたりとも何の表情も浮かべていない。  杏がぽつりと言った。 「仁」 「え?どうした杏ちゃん」  有働の言葉には答えずに杏が上半身を起こした。そして恐怖に目を見開き叫んだ。 「仁!」 「杏ちゃん?」 「駄目!仁!逃げて!」  杏がここではないどこかを見ているのだと有働は直感した。 「杏ちゃん」  有働の手が杏に触れようとした瞬間、杏が悲鳴をあげた。同時に理も叫んでいた。 「仁兄ちゃん!」  二人は再び、ベッドとふとんに倒れこんだ。  日堂家の境内にある、住持の保の好意で立てられた春日直人と郁美の墓の前に、日堂仁の首が置かれているのが発見されたのは次の日の朝だった。仁のからだは寝室のベッドの上に転がっていた。四肢がばらばらになって、何者かに齧られた跡があちこちに残っていた。  日堂仁の葬儀に杏は参列しなかった。というよりできなかった。日堂家の晃と仁は自分の家の災厄にかかわって死んだのだという呵責の念が杏の心を蝕んでいた。杏も理も、何かにつかれたかのように「ばばあを殺す」という言葉を始終口にするようになっていた。ジャックまでが飼い主の精神に感応したのか、常にピリピリと神経過敏な状態になっていた。  夜が訪れた。 「有働さん」  寝室に入った杏がギラリとした目を有働に向けた。 「どうした?」 「来ます」  杏の顔が天井に向けられた。  ドン!  何かが屋根に飛び上がったような振動が伝わってきた。 「夜叉か!」  有働が肌身離さず携行しているムチ状の武器の輪を緩めた。だらりと、尖端の鋭い刃が床にむかって垂れ下がる。  ドンドンドンドン!  屋根の上を何かが走り回っている。 「ばばあが来たよ!」  理が天井を見上げながら叫んだ。そしてダイニングに向かって走り出した。後からジャックがついていく。杏も続いた。家の中ではダイニングが一番広い。夜叉を迎え撃つとしたらダイニングが一番いいだろうと以前から話し合っていた。 「杏ちゃん、理君、待ちなさい!」  有働も慌てて姉弟の後を追った。  ダイニングに続いているキッチンで、杏と理が立っている。  ダンダンダンダン!  屋上の騒音が大きくなったかと思うと、バリバリバリという破砕音がした。 「入ってきた」  杏がつぶやいた。 「屋根を踏みぬいたよ」  理もつぶやいた。 「屋根を踏み抜いて天井に穴をあけた」  杏が理の言葉に自分の言葉を重ねた。 「二人とも、俺の後ろに隠れて」  有働が言ったが、杏も理もキッチンに立ちつくしたままだ。 「今日でおしまいにする」  杏が言った。 「今日でおしまいだね」  理も言った。  ものすごいスピードで階段を駆け下りてくる者がいた。  ダダダダダダ!  ダイニングの正面が階段の終点だ。夜叉がそこに飛び出してきた。壁に鋭い爪をくいこませて向きをかえ、階段を駆け下りてきたスピードを落とすことなく、そのまま有働たちにむかってつっこんできた。 「きゃやあああああ」  夜叉の口から怪鳥のような叫び声があがった。真っ赤な口があけられ、目玉を見開き、夜叉が襲いかかってきた。  有働の左右の腕がうちふられた。  ムチがまるで意思が宿ったかのようにうねりながら夜叉に向かって伸びていく。  夜叉のからだをムチの尖端にくくりつけられた短刀が何本も貫いた。  だが、夜叉は突進のスピードを落とすことなく、有働のからだにぶつかってきた。両腕と両足を蜘蛛のように有働のからだに巻きつけて、ムチの動きを封じた夜叉が有働の首筋に牙をうちこんだ。 「ぐぬうっ」  有働が呻き声を漏らした。 「よくも邪魔をしてくれたねえ!」  夜叉が叫び、有働の首の肉を噛みちぎった。  有働にしがみついた夜叉は何度も有働のからだに牙を打ち込んでけたたましい笑い声をあげた。 「嬉しいねえ!ハンニ・ヤカーの仇を討てて」  笑いながら有働の首筋の肉を噛み裂く。  有働がマントラを唱えたが、夜叉の動きにかわりはなかった。 「かあああああ!」  顎をあげ、かっと開かれた口で有働の顔の人中に噛み付いた。  有働の動きが鈍くなった。抵抗する力を失い、断末魔の痙攣が始まった。 「けけけけけけ」  夜叉の口から歓喜の笑い声が漏れた。 「次はおまえたちだえ!」  夜叉が立ちすくむ杏と理にむかって嬉々とした声をあげた。 「目玉をすすり、鼻を噛みちぎり、喉仏を潰してやるよ」  杏たちに声をかけながら有働のからだから身を離そうとした夜叉の動きが止まった。 「があああああっ!」  夜叉の口から苦悶の声が漏れた。  夜叉は有働のからだから離れようとしていた。  しかし夜叉のからだは有働のからだから離れることができなかった。  夜叉が有働のからだに縫い付けられたようになっていた。  有働の背中を刺し貫いたフェンシングの剣が夜叉のからだに食い込んでいた。剣は競技用のものではなく武器だった。レイピアと呼ばれている。部室の鍵付き保管庫にしまわれていたものを杏が密かに持ち出していたのだ。 「ばばあ!死ねえ!」  杏が雄叫びをあげていた。  レイピアから手を離し、背中に隠していた包丁を有働の背中に突き刺す。  有働の胸から飛び出した包丁が、夜叉の顔に食い込んだ。  二本目の包丁が有働のからだを貫いて、夜叉の首にもぐりこんだ。  雄叫びをあげたジャックが夜叉の足に噛みつき、首を振った。 「ひぎゃああ!」  夜叉の悲鳴がダイニングに響き渡った。  夜叉の足がジャックに食いちぎられ、ジャックはもう一本の足に牙をたてた。 「ばばあ!死ねえ!」  理が夜叉の背後にまわりこんで、ナイフをぼんのくぼに打ち込んだ。  杏がフォークを何本も握り締め、夜叉の顔の左右のこめかみに次々と突き刺していく。  夜叉のからだと有働のからだがダイニングの床に転がった。  夜叉が断末魔の痙攣をおこしている。  有働はすでにこときれていた。  夜叉の口ががくがくと震えた。目玉がぎょろりと裏返っている。顔が珠子になったり、夜叉になったりを繰り返していた。杏が冷たい視線を夜叉にそそぎ、珠子の顔が現れた瞬間、かかとで珠子の顔を踏み抜いた。  グシュッ  熟した果実が潰れるような音がして、珠子の顔がぐずぐずになった。  杏が何度も何度も珠子の顔を踏み潰した。  理がキッチンからフォークを持ち出し、夜叉のからだに突き刺していく。  何本も何本も恨みをこめるかのように理は夜叉のからだにフォークを差していく。  横たわる夜叉のからだがハリセンボンのようになった。  ジャックが夜叉の腹に顔をつっこみ、はらわたを喰らっていた。  ずぶずぶ、ぞぶぞぶと血をすするような音をたててジャックが夜叉を、珠子を貪り食った。  その背を理がなでている。  理の頭を杏の手がなでている。  ジャックの口が血まみれになっていた。  よく見れば、ジャックの口が耳まで裂けていた。  ジャックの背をなでる理の手の爪が異様に長く、鋭くなっている。  理の頭をなでる杏の手も同じように、人間の手ではなくなっていた。  理が杏を見上げた。  その口が耳まで裂けている。左右の犬歯が牙にかわっていた。頭の毛がずるりと束になって床に落ちると、そこから角が生えだした。  理を見下ろす杏の顔もまた、口が裂け、牙と角が生えていた。  杏と理とジャックは夜叉になっていた。  夜叉になった杏たちが玄関から外に出た。  真っ白い、深い霧があたりに漂っていた。家の周囲は白い混沌に包まれている。  杏と理とジャックであった夜叉たちが霧の中にわけいった。  三匹の夜叉を鈍く耀くスモークが渦巻きながら出迎えた。  いつのまにか三匹の正面に洋館が現れていた。その洋館は姥山脳神経研究所にそっくりだった。  洋館の緑錆銅板の扉が三匹の夜叉を歓迎するかのように不気味に軋みながら開かれた。  夜叉が洋館の中に吸い込まれていく。  三つの影が洋館の中に消えると、扉がゆっくりと閉じられた。  霧がたゆたっている。  新たな夜叉の王を迎え入れた洋館の姿が霧の中に溶け込み、そして消えていった。
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