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ヤカーの女王
直人は珠子が三十二歳のときに夫、新次郎(しんじろう)との間に授かった一人息子だった。
遅くなってできた息子を珠子は溺愛した。夫、新次郎との仲はよくなかったと直人は記憶している。直人は物心がついた頃から、珠子から新次郎の悪口を嫌と言うほど聞かされてきた。
高校に入学した頃から、その悪口はますますエスカレートしていった。
「あの人は、私があなたを生んだ日、その時間に、キャバレーで遊んでいたのよ」
「なんでそんなことがわかるんですか」
「あの人の日記を盗み見したの」
高校一年生の直人には、まだよくわからない大人の世界を珠子は赤裸々に話した。
「その店のマリアという女が好きだったのよ」
何と言っていいかわからず、直人は沈黙した。
「あの人は私に学がないから、簡単に騙せると思っているの」
「そんなこと・・・」
父を弁護しようとしたが、まだ社会経験のない直人の感受性と語彙力では、うまく言葉にならない。
父の新次郎にとどまらず、珠子の口からは、次から次へと周囲の者の悪口が飛び出してくる。とりとめもない悪口雑言のオンパレードだった。
「私はあの人とはお見合い結婚だったの」
何度も聞いた話を珠子は飽かずに繰り返す。
「あの人を紹介してくれたのは、あの人のお兄さんの奥さんだった和子さん」
直人はできれば聞きたくなかった。
人の悪口を言うのも聞くのも、嫌だった。
だが珠子の口は止まらない。
「和子さんはね、その頃、あの人とつきあっていたの」
夫の兄の妻と夫が肉体関係にあったことを珠子はまだ、キスをしたこともない直人に生々しく話す。
「きっと公人(きみと)はあの人の子なんだ」
公人とは新次郎の兄と和子の間にできた子供の名だった。
不妊症治療をうけていた新次郎の兄が、和子が懐妊したことで治療の効果を珠子に嬉しそうに話したという。
「和子さんは、あの人を私におしつけたのよ。お見合いの席までセッティングして」
直人にはそんな生々しい話はまだ、理解できない。
だが、珠子は一事が万事、その調子だった。
田舎育ちでまともな教育を受けてこなかった珠子はコンプレックスのかたまりだった。しかし、気位が高く、猛々しい性格で、人を許すということを知らなかった。
決めつけがひどく、こうと思ったら自分の主張を翻すことは決してなかった。
溺愛する一人息子に彼女ができたとき、珠子は微笑みながら「ちゃんと紹介してちょうだいね」と言った。
直人は母親のその笑顔に心を許して、当時、結婚を考えていた木下藍子(きのしたあいこ)という劇団の訓練生を紹介した。家に連れてきて、一緒に食事をしましょうと誘う珠子の言葉に直人は藍子を自宅へ招いたのだ。
「そう、役者さんなのね」
「いや、まだ役者の卵だよ」
という直人の紹介に目を逆三日月型に細めて、口角をあげて微笑む珠子は、藍子の箸使いを見て言った。
「藍子さん、箸の持ち方が変ね」
そのとき藍子は握り箸をしていた。
「その持ち方では駄目よ。箸はほら、こうして使うの」
珠子は藍子に箸の持ち方を見せた。
見よう見まねで藍子が箸の持ち方を変えて食卓の料理を不器用に掴むのを冷たい目をして見ている珠子のことが直人には今も忘れられない。
「直人くん、あの人はあなたに相応しくないわ」
藍子が帰ったあと、珠子はそう宣言した。
「それを決めるのは母さんではなくて僕だよ」
「いいえ、あんな箸もちゃんと使えない娘は、きちんとした育て方をされていないにきまっている」
「そんなことないよ」
実のところ、直人は藍子の実家によく顔を出していた。
藍子は早くに父親を亡くしていて、母親に育てられた。
藍子の母親はものにこだわりのない、さっぱりとした性格で直人はその人柄を好いていた。藍子の家では実家にいるときよりも寛げた。だから、藍子の母親の悪口を言う珠子を許せなかった。
「それになあに?役者ですって?河原乞食じゃないの」
教養に欠けるわりには古風な蔑みの言葉を使って、珠子は息子の恋人を貶めた。
日頃から、珠子の過干渉にうんざりしていた直人は、ころあいだと思った。
大学三年になったのを機に家を出た。
卒業前には、藍子と同棲するようになっていた。
だが、藍子との交際はそれ以上続かなかった。
直人が留守にしていると、家に電話がかかってくるようになったのだ。
藍子が電話に出ると珠子からだった。
「結婚もしていないのに、一つ屋根の下で男と女が住んでいるなんてどういうつもり?」
電話に出たのが藍子だとわかると珠子は一方的に藍子を責めた。
もともと人の話を聞くことはない。
自分が言いたいこと、頭に浮かんだことを、何のフィルターも通さずにそのまま相手にぶつける。
「犬猫と同じよ。言語道断です。不潔極まりない」
直人にそういうことは決して言わなかったが、電話に出るのが藍子だと、珠子は口を極めて罵った。
珠子は執拗に電話をかけてきた。それも直人がいないであろう時間を見計らって。
藍子は電話に出ることが怖くなり、電話が鳴ると身をすくませて怯えはじめた。
そしてとうとう、電話に出ることができなくなってしまった。
ノイローゼ状態になった藍子に対して、直人は藍子と別れることでしか、彼女を守ってやることができないと知った。
藍子と別れ、就職を機に直人は実家とは縁を切った。
このままでは珠子が永遠に子離れできないと思ったからだ。
「そう、独り暮らしを始めるのね」
原因を作ったのは自分だとは露ほども思っていない珠子は息子の新しい住まいの住所を聞いた。
「お掃除に行くから教えてちょうだい」
「その必要はないよ」
「そうはいかないでしょう。どうせこのあいだまで直人クンと一緒にいた女だって、きっとろくな掃除もできなかったに違いわ。男の人はいいかげんだから、しっかりとした人が家内のことをとりしきらないと」
「彼女はよくやっていたよ」
「嘘。あんなあばずれ女が家事をちゃんとできるはずがありません」
かっとなった直人は、珠子に背をむけた。面と向かっていると母親に手をあげるかもしれないと思ったのだ。
「とにかく、僕はもうこの家の子だと思わないでください」
「いいえ、あなたは必ず帰ってくるわ。わかりました。私はあなたが自分の過ちに気がつくまで待つことにします」
直人は家を出た。縁を切ると宣言はしたが、緊急時の連絡先として電話番号だけは伝えた。当時はスマホが世に出る前だから、固定電話の番号だ。
たまに珠子から電話がかかってきた。
「たまには家に電話を入れなさい。元気かどうか心配になるじゃないの」
「僕は縁を切ったつもりでいるのに、なんで電話をかけてくるんだ。切るよ」
受話器を置くと、すぐに電話が鳴る。
無視をしたが、電話が鳴り止むまでかなりの時間がかかった。
それ以降、電話が鳴っても受話器をとることがなくなり、留守番電話の機能付きの電話に切り替えた。
独り暮らしを続け、就職して郁美と出あった。
結婚を決め、さすがに両親に結婚することを伝えるために数年ぶりに実家を訪れた。
「結婚式はどうするの」
珠子の問いに直人は「近しい友人たちだけでパーティーのようなものをする。それだけだ」と答えた。
「まるで、そこいらにいる野良犬が結ばれるみたいね」
珠子の嫌味には言葉を返さず、直人は父親に同意を求めた。
父親は何も言わずただ黙って頷いた。
その夫の横顔を睨みつけながら珠子は「好きにしなさい」と言った。
それから二十数年の月日が流れている。
父親の新次郎が鬼籍に入り、珠子は寂れた町にある実家で独り、老残の身を養っていた。ある日、その珠子から電話があった。
「からだが不自由になったの。身動きもなかなかとれない。ゴミを出すのもご近所の人が前を通るのを待ち構えて、お願いしているぐらいなのよ」
受話器の向こうから聞えるのは、弱々しい珠子の窮状を訴える声だった。
「介護サービスで家事を手伝ってもらっているんだけど、ヘルパーがひどい女で、私のものを盗んでいくのよ」
泣きながらそう言って、「お願いだから、一緒に住まわせてもらえない?」珠子は過去の経緯を一切口にすることなく、直人に甘えてきた。
「私はいいわよ。お義母さんももうすぐ八十歳でしょ。こっちに迎えてあげましょうよ」
郁美の両親もすでに物故しており、自分たちの肉親は珠子しかいない。
直人は郁美がそう言ってくれるのならばと、珠子を自宅に迎えることにした。
実家を飛び出して二十有余年の歳月が過ぎている。狷介な母親の性格も少しは矯められているかもしれないと思ってのことだった。それにもうすぐ八十歳になるであろう、からだの不自由な母親を放っておくことの世間体の悪さにも気がとがめるところがあった。
二人目の子供ができたときに建てた家は広く、珠子を迎える部屋もある。
だが、珠子の性格は変っていなかった。同居を始めるなり、そのことはすぐにわかった。
家内の支配権を巡って、珠子はすぐに郁美と衝突した。珠子は何から何まで自分が決めたとおりにものごとが運ばないと不機嫌になった。
これまで郁美が定めてきた家事のルールが、珠子には気に入らないらしく、ことあるごとに郁美の家事に難癖をつけて、自分の手を加えようとした。
四十台も後半にさしかかり、体力的に衰えはあったが仕事に対してはあぶらが乗りまくっている直人は会社の要職についており、帰宅時間が遅くなることが多かった。仕事で疲れて帰ってきた直人を待っているのは郁美の珠子に対する苦情の数々だった。
(失敗した。世間体なんぞ気にしなければよかった)と後悔してももう遅い。
「あなたたちは犬猫のように一緒になったんですからね、私は今でもあなたを直人の妻として認めていませんから」
そう罵られたと泣きながら、直人に訴える郁美に直人はどういう言葉をかけていいのかわからない。
教養はないが、人の神経を逆なでする言葉には不足のない珠子は郁美を傷つけ続けているのだろう。直人は妻に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。かつて、ノイローゼで電話に出ることができなくなった恋人の藍子のことを思い出し、何か方策を考えなければと思い始めた。
だが、最愛の息子であったはずの直人の言葉ですら、珠子は聞く耳を持たなかった。それは今に始まったことではなかったが、直人は絶望的な気分に陥ることが多かった。
さらに悪いことに、珠子を呼ぶきっかけとなったからだの不具合が進行していた。
股関節にあらわれた障害は、やがて重度の坐骨神経痛を併発させ、冬になると珠子はからだを動かすこともままならなくなった。
「痛いんだよぉ」
叫びながら珠子はステッキや歩行補助機につまかり、ゆっくりと一歩一歩室内を歩きまわる。
「じっとしていたほうがいいんじゃないか」と言っても聞き入れる珠子ではなかった。医者からは手術適用だと言われていたが高齢のため積極的にすすめられることはなかったし、珠子も入院と手術を嫌がった。
「病室のごろつき連中と一緒の空気なんか吸いたくないよ」
そう言いながら家中を歩き回り、部屋の汚れを指摘し郁美の家事に難癖をつける。
「医者は安静にして横になっていろと言っているじゃないか」
「あんたにはわからないんだ。私がどれだけ孤独か」
郁美も長女の杏(あん)も珠子を避けるようになっていた。
「誰とも話ができないから、口の中に蜘蛛の巣ができちゃったよ」
減らず口だけはあいかわらずだった。
「ああ、痛い、痛い」
かがむこともままならぬようになり、珠子は痛みを訴える。
「どんなに痛いか、あんたたちに味合わわせてやりたいよ」
春がきて暖かくなると、珠子の神経痛は嘘のようにおさまり、不自由ながらも歩行が楽になる。
だが今度は、アルツハイマー型の認知症が発現した。
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