ヤカーの女王

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ヤカーの女王

「私を泥棒猫だと罵ったあと部屋に戻ったお義母さんは、さっきまで私が盗んだと言っていた服を着て出てきたのよ」  珠子が服を盗まれたと騒ぎ立て、郁美を犯人だと決めつけたあとのことを郁美は語った。 「見つかったのか」 「そんなこと私がわかるわけないじゃない。たぶん最初からそこにあったのよ。お義母さんの認知機能がおかしくなっているのは知っているでしょ!」  珠子の様子がおかしいことに最初に気付いたのは郁美だった。一時間前、朝食を食べたばかりだというのに「朝ごはんの用意はどうなっているの」と郁美をせかしたことが発端だった。ついさっきあったことを思い出せず、同じことを何度も繰り返すようになり、直人のスマホに一日何十回も電話をかけまくるようになっていた。出ても郁美への苦情を繰り返すだけなので、珠子からの電話には出ないようになった。  脳神経外科につれていき、医者から海馬の縮退を指摘され、アルツハイマー型認知症であることが判明した。  珠子の病状は急激に進行した。  夜中に家中を歩き回るようになった。  やがて、長女の杏や長男の理(おさむ)の部屋、直人と郁美の寝室のドアを開けて部屋をうろつくようになった。杏や郁美が怯えはじめ、寝室のドアに鍵をかけるようになった。  すると夜中に鍵のかかったドアをガチャガチャと開けようとし、開かないことがわかるとドンドンとドアを叩き、「何をしているんだい!開けないか!」と大声で騒ぎだした。  休日、直人がリビングのソファでうたたねをしているときも、何かの気配を感じ、目をあけたとたん、目の前で珠子がじっと直人を見つめていたことがあった。その手が直人の胸をさすっていた。さすがにぞっとした直人は「何してるんだ!」と大声をあげてしまった。珠子は何も言わず、黙ってその場を離れていった。  自宅で介護することは無理だと思っていた。  施設に預けることになったが、何度か転所を繰り返した。珠子が施設の他の患者とトラブルをおこすためだ。引き取りてがなくなりそうだった。  珠子の認知機能は完全におかしくなっていたが、たまに回線がつながることもある。しかし、だからと言って可愛いおばあちゃんになることなどはない。記憶が蘇れば、珠子は郁美を自分から息子を奪った泥棒猫だと言って罵る。服を盗んだと難癖をつけるのも、そうした郁美への一方的な恨みが言わせているのだろう。  そして自分にとって都合の悪い過去はすべて消し去ってしまう。  それがアルツハイマーのせいなのか、もともとあった珠子の性格によるものなのか、区別することはできなかった。 「とりあえず、おまえが悪さをしたんじゃないとわかってよかったじゃないか」  言う必要のない言葉だったと、口にした瞬間に後悔したが後の祭りだ。 「お義母さんは私を泥棒猫だと言ったことも、服がなくなったと騒いでいたこともこれっぽっちも覚えてないわよ!」 「わかったわかった、悪かった。とにかくおちつけ、おちつきなさい」  郁美の神経がこれ以上はもたないかもしれないと思いつつも、直人には有効な策が思い浮かばない。だが、郁美にも僅かな希望が必要だろう。 「新しい受け入れ先をしんけんに探すから、もうちょっとだけ辛抱してくれ」  涙を浮かべながら無言で頷く妻の手をとり、直人は約束した。 「必ず見つける。そこにお袋をひきとってもらう」
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