ヤカーの女王

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ヤカーの女王

 初めて入ったバーだった。  家に帰る前に鬱屈した精神を休める必要を覚えて、重い木のドアを開けた直人は薄暗い店内を見回した。カウンターが十席程度、二人がけのテーブル席が四つほどのオーセンティックなバーだった。バックバーには幾つものスコッチやジン、ウォッカ、テキーラのほかに名前も知らないリキュールの瓶が並んでいる。  店内は混んでいた。  空いている席を見つけられず、諦めて店を出ようとした直人は、テーブル席に独りで座っている男と目があった。なぜか、視線をそらすことができず、見つめてしまった直人に男はゼスチャーで空いている自分の前のスツールを指差した。どうやら、相席をすすめているらしい。  見ず知らずの人間と酒を酌み交わすことに抵抗のある直人だったが、なぜか吸い込まれるように男の前のスツールに尻を乗せてしまった。  バーテンダーがやってきて注文を聞いた。  ハイボールを頼んだ直人に男が話しかけた。喉の奥で痰がからみついているようなしわがれた声だった。 「お困りのようですな」  男は痩せていた。  いや、痩せているというのは少し控えめすぎる表現かもしれない。  頬がこけ、眼窩が異様に落ち窪んでいる。その奥にある黒々とした生気のない目が重そうな瞼の重圧を撥ね退けるかのようにぐるりと蠢いた。目の下のたるみが幾重にも重なり、鉤鼻はまるで魔法使いのそれを思いおこさせるほど鋭くせりだしていた。  枯れ木のように細い手首をスーツの袖先から出し、男は自分の前にあるカクテルグラスを手にして口に運んだ。左右の口角が不自然につり上がった口を僅かに緩めてカクテルを流し込むと、男はもう一度同じ言葉を発した。 「お困りのようですな」  直人の警戒心が高まった。 「失礼?」 「あなたを待っていたのですよ」  直人はスツールから腰をあげかけた。 「お待ちなさい」  からみついた痰を切るようにしわぶきをして男が直人をとめた。 「私の話を聞いたほうがいい」  立ち上がった直人は、椅子に座りなおそうとせず、男を見下ろした。男は気持ち悪いうす笑いを浮かべて直人を見上げている。 「お母さんをひきとってあげようと思っているんですよ」  直人は黙ったまま男を見つめていた。しかし、胸中には動揺が生まれている。 (まさか、誰だこいつは?なんでお袋のことを知っているんだ)  直人の心を読み取ったかのように男が名刺を差し出した。 ―― 姥山(うばやま)脳神経研究所 ―― と書いてあった。 ―― 所長 邪禍 倶満拏(やか くばんだ)―― が肩書きと名前だった。 「脳神経・・・の・・・先生ですか?」  男がにちゃりと笑った。 「おかけにありませんか」  直人はスツールに座りなおした。 「珍しい名前ですね。邪禍というのは」  席を立とうとした後ろめたさもあって、直人が口を開いた。 「はじめて会う人は皆そう言います」 「どちらのご出身ですか?」 「遥か遠くの先祖はスリランカという国名になる前のセイロン出身という話ですが、本当かどうかはわかりません。もちろん私は日本国籍を有する日本人ですよ」 「この・・・姥山脳神経研究所というのは?」 「私が経営している医療法人です。私は医学博士でもあります。もちろん医師でもあります」 「何を研究されているのですか?」 「おもにアルツハイマー病、それから脳神経にかかわる諸々です」 「では認知症研究を?」 「研究もしていますが、診療もしています。重度の方の介護施設も運営しています」  直人の喉がぐびりと鳴った。その音がはしたないほど大きく聞えたので、テーブルの上のハイボールに手を伸ばしてグラスを大きく傾けてごまかそうとした。 「在宅介護に限界を感じている重度のアルツハイマー病の患者を受け入れています。さらに身体に支障ををきたしている方もね」 「完全介護なんですね」 「それだけではありません。ある種の治療も行っています。ただしこれはご家族の合意がなければできません」  治療などしてもらいたくはなかった。珠子にはできればこのまま静かに最期を迎えさせたい。直人は邪禍の話の最後の部分は聞き飛ばした。 「私のことをご存知のようですが・・・」 「仕事柄、重度アルツハイマー病の患者さんの情報をあちこちの医療機関から収集しているのです」 「それは・・・患者の個人情報のリークになるのでは?」 「厳密に言えばね。でも『じゃの道は蛇』と言うでしょう?特に私が集めているのは、どの医療機関でも、もてあましている診療拒否をしたい患者さんの情報ですからね。快く情報を提供してくれますよ、皆さん。それにご家族の情報も私は集めています」  珠子はすでに各施設のブラックリストに載っているのではないかと思っている直人にはのみこみやすい話だった。 「でも、偶然ですね。あなたとこの店でお会いできるとは思ってもいませんでした」邪禍がそれを歓迎するようにあいかわらず薄ら笑いを浮かべながら言った。 「では、あなたは私の母に注目していたと?」  邪禍は空になったカクテルグラスを振って、バーテンダーを呼んだ。 「同じものを」 「それは何という名のお酒ですか?」 「『ステュクス』です」 「初めて聞く名前です」 「この店のオリジナルカクテルです。川の名前をつけたのですよ」 「ステュクス川?」 「そう」 「それは・・・どこの川ですか?」 「冥界です」 「めいかい?」 「冥途のことですよ。生者と死者を分かつ川の名です。日本では三途の川と呼ばれています」  目の前の痩せこけた男の目には白い部分がほとんどなかった。眼球全体が真っ黒い玉を埋めこんだように黒い。その不気味な目を見ながら、直人の背に鳥肌が走った。 「ずいぶん・・・気味の悪いお酒ですね」  「あなたはこのバーのお名前をご存知なくお入りになられた?」 「ええ、一見で入ってきたもので、看板もよく見ませんでした」 「ここは『冥途バー』というのですよ」  くっくっくと声にならない笑いを漏らして邪禍は言った。 「ぴったりだと思いませんか」  バーテンダーが持ってきたカクテルグラスを直人の持っているハイボールに触れさせて邪禍は言った。 「そのハイボールも『アンデッドハイボール』って名前なのですよ」  直人は笑えなかった。 「それでね、春日さん」  邪禍は直人のことを本当に知っていたようだ。さっき名刺を渡されても、直人は自分の名刺を出しはしなかった。だから名前を知りようもないはずなのに、今、はっきりと直人の名字を口にした。邪禍が直人の家のことを知悉していることの証かもしれない。そして春日珠子の存在に注目している。直人は邪禍のさきほどからの言葉を信じる気になった。同時にこれはチャンスかもしれないと思った。 「私の母をひきとってもいいとおっしゃいましたね」  再び、直人の喉がぐびりと鳴った。今度はそれを隠そうともせず直人は言葉を続けた。 「それは、さきほどおっしゃっていた完全介護の施設に母をお預けできるということですか」  邪禍の口角が上った。 「ええ、それも破格の費用で。ただし、条件がひとつあります」 「何でしょうか」 「私の施設は研究も行っていると申し上げました」 「覚えています」 「海馬に対してある種の治療を施すことに同意をしていただきたい」 「それは・・・どういう目的の治療でしょうか」 「アルツハイマー病の進行を止めるか、あるいは根治を目指す治療です。身体活動も活発になるかもしれません。まるで別人のようにね」  邪禍は別人という言葉を強調した。 「・・・危険はあるのでしょう?」 「もちろんです。命を落とす可能性もあります。ですからご家族の同意が必要なのです」  直人はアンデッドハイボールを追加した。  不思議なことにぜんぜん酔いがまわらない。飲めば飲むほど頭が冴えてくる。 「お時間をください。家族に、はからねばなりません」 「そうでしょうとも。連絡先はその名刺に書いてあります。いつでもご連絡ください」  そう言って、邪禍は席を立った。  直人はそのまま店に残った。  いつの間にか外には霧が立ち込めているようだった。重い木の扉が開けられると、入口の照明をうけてスモークのような鈍い耀きを発する霧が店内に流れ込んできた。邪禍の真っ黒い影が白い混沌の中に消えていく。そして扉が静かに閉じられた。
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