ヤカーの女王

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ヤカーの女王

 門扉を開けると、珍しくジャックが直人を迎えに出てきた。  ジャックは、黒いラブラドール・レトリーバーだ。一歳半だから、人間で言えば二十歳ぐらいの成犬だ。優しい性格で吼えることがほとんどない。長男、理のペットだった。 「今日は外に出て俺を迎えてくれるのか」  尻尾を振るジャックの首を撫でながら、直人は鍵をあけて家に入った。まだそれほど夜は更けていない。  ダイニングキッチンに郁美がいた。  その顔を見れば、また今日もストレスを溜め込んだことがありありとわかる。 「今日は何があったんだ?」  先手をとって話しかけた方がこちらのストレス軽減になることを直人は経験から身につけていた。 「徘徊」  短く郁美が答えた。 「あなた、お義母さんに位置情報を知らせる携帯を持たせましょうよ」 「そうだな。でもどうやっていなくなったお袋を見つけたんだ?」 「私が見つけたんじゃないわ。そもそも家から出ていったことも知らなかったんだから」 「自分で帰ってきたのか?」 「いいえ、駅前に交番があるでしょ。あそこのお巡りさんが連れてきてくれたのよ」 「それはよかった」 「いいけど、私、嫌だわ。そのお巡りさんは竹中(たけなか)さんていう若い人なんだけど、交番内での引き継ぎ事項にお義母さんが入っているらしいのよ」 「要注意人物ってことか?」 「そうみたい。そのお巡りさんが『これからはたまに様子を伺いにお寄りします』なんて言って帰っていったの。あれって私がお義母さんを虐待していないかどうか観察しているってことかしら?」 「そんなことはないだろう。町内の見守りが必要な老人のケアなんじゃないか」 「だったら、いいのだけれど・・・」 「お袋に持たせる位置情報用の携帯は俺が用意する」 「お願いします」 「それよりも、おい、いい話だ」 「なに?」 「お袋を預ける施設が見つかったんだ」 「本当?」  直人は、姥山脳神経研究所の話を郁美にした。  公休日、直人は郁美と長女の杏を車に載せて、姥山脳神経研究所に向かっていた。  珠子を預けるにしても、どのような施設か見ておく必要があったからだ。一人で行くつもりだったが、郁美も一緒に行くと言い出し、高校一年生の杏も「私も行く!」と言って同乗してきたのだ。  杏は珠子を嫌っていた。  休日で、両親が家をあけ、弟の理と二人で祖母の相手をするのが堪えられないのだろう、と直人は思っている。難しい年頃だったが、郁美と杏の仲はよかった。珠子が何かにつけて郁美を罵る光景を見て、母親思いの杏は珠子の理不尽な振る舞いを許せないようだ。人生で最も潔癖な年頃だからということもあるだろう。  小学五年生の長男、理は祖母を姉ほど嫌ってはいない。  それは珠子が理を可愛がっているせいだろう。理は、直人の子供時代にそっくりだった。アルツハイマーの症状が酷いときに珠子は理のことを、直人と勘違いすることがある。 「直人くん、こっちへいらっしゃい」と明らかに名前を取り違えている。その回数が最近頻繁になった。理を息子だと思い込み、直人に対しては「あなたはどなた?」と赤の他人だという対応をすることが珍しくなくなった。  今日は三人で家を空けるが、理が残っていれば不測の事態は起こらないだろうと思っている。  邪禍に電話をかけ、一度施設を見学させて欲しいと伝えると、今日という日を指定してきたのだ。  姥山脳神経研究所は山奥にあった。直人の車に搭載しているカーナビが役に立たなくなるほどの山奥だった。周囲を鬱蒼とした樹林に囲まれた、舗装もされていない山道を車はスピードを落としながら進む。 「ちょっと、パパぁ大丈夫なの?」  車が行き違いをすることもできそうにない細い道を進む直人に杏が不安を漏らした。 「もし対向車が来たらどうするの?」 「退避スペースがあるから、そこに車を寄せるんだ」 「もし、今来ちゃったら?」 「さっき見かけたところまでバックするしかないな」  左側は露出した山肌が迫り、右側は深く切れ込んだ谷だった。 「まさか、こんな山奥にあるとは思ってもいなかった」  汗をかきながら慎重に運転する直人の隣に座っている郁美は娘と違って落ち着いている。 「こんなに山奥の、交通の便が悪いところなら、患者はとてもじゃないけど脱走なんてできないわね」  脱走という言葉のアクセントがちょっと強かった。 「それに、面会に来る家族なんていないかもしれないわね」  いないかも、という言葉に踊るような軽やかさがあった。  直人は苦笑した。  だが、本心では郁美とまったく同じことを考えていた。 「あ、見えた!あれがそうじゃない?」  杏が後部シートから身を乗り出して前方を指差した。  前方に高い鉄扉が見えた。  完全に道路を遮断している。 (と、いうことはこの道は、姥山脳神経研究所に通じるたったひとつの道であり、そのためだけの道ってことか)  直人は近づいてくる鉄扉を見ながら『収容所』という言葉を思い浮かべていた。 (ナチスドイツの強制収容所みたいだな)  現地に行ったことはなかったが、テレビのドキュメンタリーで見たことがある。アウシュビッツ第一収容所のアーチ門には『働けば自由になる』との文字が掲げられていた。 (『ここに入れば自由になる』ということか)直人は言い換えをした。  それは患者にとってのことなのか、患者の家族にとってのことなのか、あまりつきつめて考えたくない事柄だった。  鉄扉の前で車から降りた直人は柱にインターホンが取り付けられていることに気がついた。受話器をとると、コール音が聞えた。 「はい」  女の声がした。 「今日、施設見学をお願いしている春日です」 「聞いています。お入りください」  鉄扉の開錠音がして、内側に向かってゆっくりと観音扉のように開いた。錆びた鉄が擦れ合う癇に障る嫌な音が樹林にこだました。それは耳を塞ぎたくなるほど不快な音だった。  運転席に戻って、車を敷地内入れる。背後の鉄扉が閉じられるのがバックミラーに映った。  鉄扉からさらに五百メートルほど先に古めかしい洋館が建っていた。 「なんだかおどろおどろしいわね」  郁美が不安げに呟いた。さっきまでの義母の世話をせずにすむ開放感からはずんでいた気分はあたりの陰鬱な空気に冷やされて萎んでしまったようだ。 「『スリーラーハウス』みたい!」  杏の声は逆に嬉々としている。  直人の世代ならば『化け物屋敷』だが、杏にとっては『スリーラーハウス』のほうが馴染みがあるのだろう。直人は呼び名にかかわらず、そういうアトラクションが大嫌いだった。杏はそうではないらしい。  二階建ての洋館のすべての窓に鉄格子がはめられていた。窓はすりガラスで中を覗くことはできない。どっしりとした柱で支えられた玄関前の円形の車寄せの上部は半円形のファサードに覆われている。ファサードの入口は緑錆銅板の扉だった。  その扉が開かれていて、一人の男が白衣を着て立っていた。
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