ヤカーの女王

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ヤカーの女王

 留守番をしている理と珠子はリビングルームにいた。  理の傍らにはラブラドール・レトリーバーのジャックが身を横たえている。黒い艶のある毛並みの腹がうねっていた。その腹を理がなでてやるとジャックは嬉しそうに舌を出して、理の顔を舐める。  窓際のキャスターつきの棚には珠子が丹精をこめて育てている鉢植えが並んでいた。 「直人くん、この赤い蘭はね、野生のエビネなの。一鉢うん万円もするのよ」  理のことを息子の直人と勘違いしている珠子に、理も慣れてしまい、訂正を求めたりしなくなっていた。小学五年生の理は、園芸にはまったく興味がない。それでも優しい性格なので祖母の話を熱心に聞いている。それがたとえ何十回目の同じ話であっても。 「このバラも綺麗でしょう?青バラよ。匂いがとってもいいの」  そう言って珠子は藤色の大輪のバラを手にとって目を細めた。再び、さっきエビネと言った野生の蘭を見る。 「公園で鉢植えを売っている園芸農家の人がね、この花を欲しがっているほど育てるのが大変なの」 「結城(ゆうき)さんだっけ?その花屋さん」 「なんていったか忘れちゃったわ。でもね、私のことを本職顔負けだって誉めてくれるのよ」 「おばあちゃんの花は人気があるね」 「そうね、一人で暮らしていたときもご近所さんが私の鉢植えをよく見に来ていたわ」  そのとき、何かを思い出したのか、珠子の表情がガラリとかわった。 「そうだ!思い出したわ、あの園芸農家!」 「結城さん?」 「そう!私のエビネの鉢植えを貸してくれって、一鉢持っていったのよ!」 「なんで?」 「株を分けて挿し芽をしたいって。プロだからね、それならばと貸してあげたのに、あいつあれからずいぶんたつけど返しに来ないわ!」  両目がつり上がり、唇が震えだした珠子の背に理が手をあてて宥める。 「おばあちゃん、おばあちゃん、きっとまだ作業が終わってないんだよ」 「そんはずないわ!かれこれ三ヶ月前のことだもの!あいつ、私が物忘れがひどくなってきたことを知って、そのまま自分のものにするつもりなんだ!」  そのとき、玄関のチャイムがなった。 「誰か来たみたい」  理が玄関に向かった。後からジャックがついてくる。 「はい」 「春日さん、駅前交番の竹中です」  扉の向こうに立っていたのは、先日、徘徊をしていた珠子に気がついて家まで連れてきてくれた若い警察官だった。 「あ・・・竹中さん」 「竹中勉(たけなかつとむ)です。  警官は笑いながら敬礼をした。 「この間は祖母がお世話になりました。ありがとうございます」 「職務ですから礼には及びません。今日はご両親は?」 「出かけています」 「おばあちゃんは?」  クリップボードに挟まれた紙を見ながら竹中は言った。家族構成を確認しているのかもしれない。理は興味津々で竹中の手元を覗きこんだ。 (もしかして、ジャックのことも書いてあるのかな) 「家にいます。奥の部屋に」 「理くん・・・お姉さんの杏さんは?」 「父と母と一緒に出かけました」 「感心するなあ、ご両親のことを父とか母とか言える小学生はあまりいないよ」 「そうですか」照れ笑いをしたが、少し鼻が高かった。 「それでおばあちゃんの珠子さんと二人で留守番というわけだね」 「いいえ」 「あれ?ほかにもご家族はいたっけ」 「こいつも一緒に留守番です」  理がジャックの背を撫でた。尻尾がいきおいよく振られる。 「そうか、大きな犬だね」 「でもすごく優しいんですよ。散歩をしても人に吠えかかることはないし、小さな犬と出会うときちんと挨拶するんです」 「何ていう名前なの?」 「ジャックです」 「そう」  竹中がクリップボードの紙に何かを書き込んだ。 (きっとジャックのことだ) 「珠子さんはその後かわりはありませんか」  クリップボードから顔をあげた竹中がにこやかな顔で聞いた。 「それって・・・勝手に家出してしまうってことですか」 「まあ、そんなところかな」  竹中がちょっと苦笑したように理には見えた。 「あのあとは、まだそんなことありません」 「それはよかった。なにしろお歳だからね、いろいろと見守っていないと」 「はい、この間父が位置情報確認のために祖母用の携帯電話を買ってきました」 「位置情報アプリを使っているんだ。それは安心だ」 「ええ、僕のスマホにも入っています」  ポケットからスマホを取り出し、両親の位置情報を拾おうとした。 「あれ?」 「どうしたの」 「いえ、両親の位置情報が出ないんです。圏外ってことかな」 「遠くに出かけているんだね」 「そうかもしれません」 「それじゃあ、私はこれで失礼します。これからもたまに顔を出すので宜しくね」 「こちらこそ」
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