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ヤカーの女王
自分たちの位置情報が息子に届かないほどの僻地にいることに気づいていない直人は、白衣を身にまとって玄関で待っていた邪禍に妻と娘を紹介していた。
「妻の郁美と娘の杏です」
「はじめまして」
郁美の顔にぎこちない笑顔が浮かんだ。
邪禍の怪異な容貌に怯んだのだろう。見たところ杏のほうが腹がすわっているようだ。娘は恐れる風もなく興味津々といった表情で邪禍を観察しているようだ。杏は高校の部活でフェンシングをやっている。
「ここの所長の邪禍です」
末期の癌患者のように痩せこけた顔は、このあいだ薄暗いバーで見たとき以上に陰気なものだった。落ち窪んだ眼窩の底の黒い目はあいかわらず底なし沼のようで、何を考えているのか読み取れない。
枯れ枝のように細い手首を白衣の袖から出して、邪禍は郁美と握手をした。郁美はおそるおそるといった様子で邪禍の差し出した手に触れた。そしてすぐに引っ込めた。
「今日は施設の見学をお許しいただきありがとうございます」
直人が洋館を見渡しながら邪禍に礼を言った。
「それにしてもずいぶん年季の入った建物ですね」
「そうですな。明治末から大正にかけて作られたそうです」
「こんな山奥・・・いや失礼、こんなところにどういう目的で建てられたのでしょう」
「いいんですよ。本当に山奥ですからね。ほら携帯電話がつながらないでしょう?」
邪禍の言葉にスマホを見ていた杏が声をあげた。
「本当だ!圏外だわ」
「精神病院だったそうです。いわゆる閉鎖病棟ですな」
「それで、窓に鉄格子がはめられているのですね」
「ええ、認知症の患者さんの中には強度の徘徊癖があったりしますからね。当研究所がこの洋館を買い取ったのも外に出られないような造りがちょうどよかったのです」
「それに町からかなり遠い」
「最寄の集落まで歩けば、五時間以上はかかるでしょう」
「私有地の境界線ですか、ここに入る前に大きな鉄扉がありましたね」
「ここから自動的に開閉できるようになっています。敷地は有刺鉄線と高圧電流の流れる電気柵に囲まれています」
「ずいぶん、ものものしいわね」
郁美が不安げな顔であたりを見回した。
「患者さんは病室から出ることができません。部屋はきちんと施錠しています。たとえ病室を出ても、この建物から出ることもできません。周囲の備えは野性動物の侵入を防ぐためのものですよ」
邪禍が無表情に言った。
「ともかく中にお入りください。ご案内します」
玄関に入るとすぐにホールがあった。天井の星型の台座からペンダントライトが吊り下げられている。照度を上げるためか球形の電球が使われていたが、あまり効果を発揮しているとは思えなかった。ホール内は薄暗く、丸いオレンジ色の電球がぼんやりとした弱々しい光を周囲に放っているにすぎない。
玄関ホール正面の扉をあけて邪禍が直人たちを邸内の奥へ招じ入れた。長く薄暗い廊下の両側に幾つもの扉があった。鉄の扉には顔の位置にスライド式の覗き窓のようなものがある。邸内は静かで人の気配が感じられない。敷地前にあった鉄扉のインターホンから来訪を告げたときに対応した女性がいるはずだから、少なくともここには二人がいることになる。それ以外にどれだけの人が入居しているのか想像がつかなかった。
邪禍が立ち止まり、部屋の扉に鍵を刺し込んだ。扉を開けて直人たちに入るよう促す。三十平米ほどの長方形の部屋だった。調度品はベッドとベッドサイドテーブルしかなかった。入口脇の照明スイッチを入れると蛍光灯の白く冷たい無機質な光が部屋を照らしだした。昼だが室内は少し薄暗かった。それは、窓の小ささによるものだろう。
「ここが患者さんの病室です」
邪禍が直人と郁美にむかって言った。
「浴室やトイレは入口の脇にあります」
邪禍が開けたドアのむこうにユニット式のバスとトイレがあった。それほど狭苦しいサイズではなかった。
「部屋には患者さんの使っていた家具を持ち込むことができます。食事はきちんと栄養管理を考慮した朝、昼、夜の三食が提供されます」
「食堂のようなものはないのですか」
「患者さんが互いに接することはできません。したがってそのような集合室は不要なのです」
「テレビとかの娯楽は?」
「もちろん、持ち込んでいただいて構いません。病室の中にね」
病室の外部に面した壁には窓枠がひとつだけ切り取られている。横幅五十センチ、縦八十センチ程度のもので、はめられているスリガラスのせいで眺望が抜群というわけにはいかない。部屋の薄暗さもこのガラスのせいだろう。スリガラスの向こうに何本もの縦縞が見える。外観で見たとおり鉄格子が外側にはめられているのだ。
「あなた・・・」
郁美が直人の耳元で囁いた。
「うん」直人には郁美の言いたいことがわかった。この病室に入ったとたん、ある臭いがずっと気になっていたのだ。芳香ではなかった。饐えた臭いだった。何の匂いか特定できないが嫌な匂いだった。それはホルマリンとか消毒薬のような病院関係の臭いとは違っていた。ただし、二人にとっては馴染んだ匂いでもあった。それは珠子の体臭に似ていた。珠子のからだからはいつも、この部屋に漂っているような饐えた匂いがしていた。珠子自慢の鉢植えのバラは香りの強い品種が多い。直人も郁江も、それを自分の体臭をごまかすためだと密かに思っていて、夫婦の間で話柄にすることがあった。
部屋の臭いを嗅ぐ直人の仕草に気がついたのか、邪禍が言った。
「消臭剤を用意していただく必要があるかもしれませんな」
「邪禍先生、この臭いは?」
「人の臭いですよ。あるいはその痕跡」
「もしかして、この部屋がおばあちゃんの病室になるの?」
杏が邪禍に質問した。
「こら、杏、まだ何も決めてはいないんだから、あまり先走ったことを言うな」
「いいじゃん、パパとママはここにお婆ちゃんを預けるつもりなんでしょ」
確かにそれは直人と郁美の二人にとっては既決事項ではあった。
「そうだよ」
しぶしぶと直人は娘の言葉に同意した。
「私も賛成だよ。お婆ちゃんはここにお世話になったほうがいいもの」
それは春日家がすでに珠子の存在によって疲弊しきっていることを感じ取っての言葉に違いなかった。
「おばあちゃん、いつまでここでお世話になるのかなあ」
無邪気に言い放った杏だが、それは祖母があと何年生きるのかと言っているのだ、と直人はうけとめ、珠子は杏にそこまで嫌われていたのかとあらためて母と家族との間に横たわる溝の深さを認識した。
「お嬢さん、大丈夫。私たちにお婆ちゃんを預けてもらえたら、お婆ちゃんはきっと今よりも元気になって、本当の自分を取り戻すことができるかもしれない。そうなればとても悦ぶことになるよ」
「そうなんだ」
邪禍の言っていることがよくわからないままに杏は相槌をうった。
「先生、今、入院している患者さんは何人くらいいらっしゃるんですか」
直人の質問に、天井を見つめながら邪禍は指を折り始めた。
「ヤクシャが一人。でもまだ醒めていません・・・」
「役者さん?俳優の方も治療をうけているんですか」
「男のね。女も一人います。これもまだ昏睡状態です」
「二人だけ?それで、病院内がこんなに静かなんですか?」
「もっと溢れかえるくらいに収容するとこもあります。今はちょうど閑期みたいなものです」
「その・・・溢れかえるくらいに入院されていた皆さんは退院していかれたということですか」
邪禍の使った「収容」という言葉に、鉄扉の前で連想した「強制収容所」を思い出し、直人は不安を覚えた。アウシュビッツでは収容所に入っていた人々はほとんどが生きて出てこれなかったのだ。
「ええ」
邪禍の返事にほっとすると同時に、春日家の皆(理を除いて)がそれを望んでいないこともあって複雑な思いが胸中をかけめぐる。だが、邪禍の次の言葉でぞっとすると同時にほっとする自分に嫌悪感が走った。
「ほとんどの方は、お亡くなりになってですが」
「仕方ありませんもの。皆さんご高齢でいらっしゃったのでしょう?」
郁美の言葉に頷き、邪禍は妙なことを言った。
「たまに大変にぎやかになるときもありますよ。ほんとうにたまにね。そのためにも病室には施錠をしているんです」
躁鬱病の患者が入院してきたときの話かな、と直人は理解した。
「お母様はいつからこちらで受け入れていただけるんですか」
郁美がその日が待ち遠しいとでもいうように少し明るい声で聞いた。
「いつからでも。あなたがたが望まれる日から。私たちは春日珠子さんを受け入れられることを光栄に思っています。実に・・・そう、実にたいへん久しぶりに現れた非常に濃い因子をお持ちの方ですからね」
「アルツハイマー型認知症のですか?」
「なかなかお目にかかれないほどのね」
「先生、私、病院の中を探検してもいいですか?」
「杏」
郁美が娘をたしなめたが、邪禍はすんなりと杏の望みを聞き入れた。
「外に出ないと約束してくれるなら、どうぞご自由に病院内を見学してください」
「いいんですか」
申し訳なさそうに直人は邪禍に聞いたが、本心では杏の観察に期待するところがあった。あとでいろいろと聞くことにしよう。
「もちろん、立ち入り禁止区画は施錠されていますから安心です。開いているところはいくらでも見てください」
「じゃあ、行ってきます!」
「私たちは玄関前のホールにいるからね」
郁美の言葉に後ろ手で手を振って杏は二階へ通じる階段を駆け上がっていった。
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