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第一章 初乗り運賃769円
《みなさん、ごきげんよう。時刻は午後二時になりました。さわ子のさわやかラジオ769。本日四月八日、月曜午後のお相手は小野さわ子が生放送で、市役所前の公開スタジオからお送りします》
軽快なオープニング曲が空車のタクシー内に流れて、元気すぎる女性の声が飛響く。繁男はカーオーディオの音量を下げた。メジャーリーグ中継が終わり、ラジオのチューナーを適当にいじっていたら、この周波数に合ったようだ。
「何がごきげんよう、だ。こっちは不機嫌よう、だ」
ひいきの日本人選手が出場しなかった腹いせを、ラジオにぶつける。
《さて、ここで交通情報が入っています。JR羽越本線で信号故障のため、加治駅から新発田駅の間の下り線の一部列車に四十分から五十分の遅れが出ております。繰り返します……》
「へぇ、こんな情報も教えてくれるんだ。ありがたいな。それなら列車の待ちの乗客を拾いに、駅前のロータリーで客待ちとするか」
繁男はフロントガラスの表示板を、空車から回送に切り替えた。
繁男は個人タクシーの運転手だ。定年退職するまで勤めていたタクシー会社では、本部がタクシー無線で指示してくれた。今はひとりで情報収集をしなくてはならない。
「地域ラジオも、案外役に立つものだな」
《FMしばたは、全国に向けて、インターネットサイマルラジオでも発信しています。新発田の話題はFMしばた769でお聴きください》
六十五歳の繁男には、インターネットラジオの意味はよくわからないが、テレビニュースの地方版より詳しく教えてくれそうだ。いいことを知った。繁男は機嫌を直して、郊外の大型ショッピングモールのタクシー乗り場から新発田駅へと向かった。
駅前はタクシー待ちの二十人ほどの行列ができているが、空車はまばらだ。繁男のタクシーは待たずに車列の先頭に並ぶことができた。
「運転手さん、新潟駅まで大至急。四時半の新幹線に間に合うように頼むよ」
キャリーバッグを引きずったサラリーマンが後部座席に乗り込む。
「お客さん、飛ばさないと間に合いませんよ。高速道つかってもいいですか」
上客を拾えた。ラジオの情報さまさまだ。
《FMしばたが午後六時をお知らせします。この時間の気象予報です。今夜は不安定な気圧配置がつづき、このため夜から次第に雨になるでしょう。続いてポイント予報です。新発田付近は今夜は曇りのち一時的に強い雨、明日の最低気温は……》
今日はもう上がりにしようと思っていたが、考えを変えた。繁男はホームセンターでビニール傘を買い込んで、トランクに詰め込むと街中へ戻った。
新発田一の繁華街、新町は駅から歩いても十五分とかからない。繁男は車を路地裏に停めた。老舗の料亭は、女将が気を利かせて馴染みのタクシー会社へ電話をしてしまう。板前ひとりで切り盛りしている小さな寿司屋なら、客がつかまるだろう。繁男が傘と名刺を持って寿司屋を訪ねると、駅まで三往復分の客を連れてくることができた。
「今日うまいビールが飲めるのは、ラジオのさわ子さんのお陰だな」
繁男はアパートに帰ってから、上機嫌でビールを三缶空けた。
《時刻は午後八時です。続いて交通情報です。県道312号線大沢地区で道路改良工事のため、四月三十日まで夜間通行止めです》
タクシーでFMラジオを聴くことは、繁男の習慣になってきた。夜の客待ちでも退屈しない。
「おい、月岡温泉まで頼む」
駅前で、旅行カバンを抱えた初老の男を乗せた。
「もう宴会が始まっているんだ。ゴルフ場前の近道で飛ばしてくれ」
「お客さん、あの道は工事中だそうです。大通りで行きますよ」
「そんなはずないだろ。お前、遠回りして運賃稼ごうとしているんだろう」
「いえ、たった今、交通情報で」
「もういい、お前の車には乗らん」
客は怒って降りてしまった。
「通行止めで引き返していたら、もっと怒っていただろうな」
繁男は、無用なトラブルを避けられたとラジオに感謝した。
《四月十四日まで、加治川桜まつりが開催されます。本日は桜まつり実行委員の渡辺さんと電話が繋がっています。渡辺さん、よろしくお願いします》
《はい、加治川沿いは、かつては六千本の桜で有名な名所でした。水害のため現在は二千本ですが、見事な桜を見ることができます。来週から夜間ライトアップを行っています》
川沿いには地元名物の黒糖蒸しパン「ポッポ焼き」の屋台が出ていて、甘い匂いを漂わせている。土手道には昼間から酔客を待つタクシーが並んでいる。
「繁さん、景気はどうだい」
運転手仲間の松田が、窓から話しかけてきた。運転席で居眠りしてしまいそうな陽気だ。
「松ちゃんかい。最近、俺ついてるんだよ。ラジオ聴いてるおかげかな」
「へぇ、FMしばただろ。さわ子さんの声って、渋滞でイライラしても不思議と癒されるよな」
「松ちゃんも知っているのかい」
「ああ、声だけでお顔は拝見したことないけどな」
タクシーのボンネットに積もった花びらを落としながら、繁男は見たことのないさわ子を想像してみた。
翌朝、客を降ろしたあと駅前通りで通勤ラッシュに嵌った。
《みなさん、おはようございます。只今時刻は午前八時です。さわやかラジオ769。金曜日の朝は小野さわ子が生放送で、市役所前の公開スタジオからお送りしております》
次の交差点を右折すると市役所だ。今、この先のスタジオで公開生放送しているはずだ。繁男はさわ子を一目見てみたくなった。
《ここで交通情報です。国道290号線は事故のため、新発田駅付近を先頭に二キロメートルの渋滞となっています》
車列は全く動かない。ガラス張りのスタジオは、車の右手側だ。繁男は首を伸ばしてみたが、朝の陽光がガラスに反射してよく見えない。ちらっと後ろ姿が見えた気がした。やがて渋滞は解消して、のろのろ運転で市役所前を通り過ぎてしまった。
《番組ではメッセージを募集しています。どしどしお寄せください》
そうだ、投稿をしてみたらどうだろう。さわ子さんの声で、自分の送ったメッセージを読んでもらいたい。
《メッセージは番組ホームページから受け付けています》
やっぱり無理だ。繁男はスマートフォンを持っていない。タクシーの配車待ちやカーナビ代わりにに便利だと知ってはいるが、繁男はかたくなに旧来の携帯電話を使っていた。
《またメールの方は、message@fm769.co.jpまでお寄せください。あわせてリクエスト曲も募集しています。メッセージ、たくさんお待ちしてます》
よし、これだ! 繁男は膝を打った。メールなら、繁男の携帯電話でも送ることができる。タクシーを近くのコンビニ駐車場に停めた。たどたどしい手つきで、ようやくメッセージを送る。どれくらいの数が読んでもらえるのだろうか。ラジオネームは何にしようか。懸賞に応募したような、わくわくした高揚を覚えながら、携帯電話を折り畳んだ。
《時刻は午後十一時五十分となりました。生放送でお送りしてきました、さわ子のさわやかラジオ。お別れの時間となってまいりました》
やっぱり読まれなかった。初投稿なら仕方ない。また今度挑戦してみよう。繁男はラジオのチューナーを回そうと手を伸ばした。
《本日最後のメッセージです。ラジオネーム『不滅の巨人』さん、ありがとうございます》
どきっとして指が止まった。繁男の送ったメッセージだ。
《『さわ子さん、こんにちは。初めてメッセージを送ります。運転中にいつもラジオの情報に助けられ、さわ子さんの明るい声に元気づけられています。これからもがんばってください』
そうなんですね。ありがとうございます! これからもお気をつけて運転してください。それではみなさん、さようなら! お別れの曲は、『不滅の巨人』さんからリクエストいただきました……》
繁男が顔をほころばせながらハンドルを握っていると、歩道で大きなカバンを提げた老夫婦が手を挙げている。繁男はラジオを切って車を降りた。
「どちらまでですか」
「県立病院までお願いできるでしょうか」
病院へはここから一キロの距離もないが、断るわけにもいかない。繁男は手を貸して、客を後部座席に乗せた。外来入口で客を降ろすと、さわ子のラジオはとっくに終わってしまっていた。曲は聴けなかったが、メッセージを読んでもらえた。繁男は笑みを浮かべて、リクエストした曲、NHKのドキュメンタリー番組の主題歌、中高年の応援歌を口ずさんだ。
今日は朝から気分がいい。早く切り上げてビールを飲もう。昼飯を食べ、あと一回で上がりだと決めて車を駅前通りへ向けた。赤信号で止まっていると、有名な和菓子屋の大きな風呂敷包みを抱えた女性が近づいてきた。
「駅までお願いします。近くてすみませんが」
つばの広い帽子を目深にかぶっている。
「ええ、構いませんよ。初乗り運賃で着けます」
「あと、運転手さん、すみません。ラジオの音小さくしてもらえませんか」
「いやあ、すみません。気がつきませんで」
繁男はボリュームを少しだけ下げた。
《この時間は「さわ子の幼稚園訪問インタビュー」のコーナーを朝の再放送でお送りしています》
「お客さん、前にこの車に乗ったことありましたかね」
職業柄、繁男は一度乗せた客の顔と声はよく覚えている。
「いいえ、なかったと思いますが」
女性客は帽子のつばをさらに下げた。この声に聞き覚えがあるように思ったのだが。ダッシュボードのネームプレートを見て、客が話しかけてきた。
「運転手さんのお名前お珍しいので、もし乗ったことがあったら私覚えていると思います。『永島繁男』さんっておっしゃるんですね。やっぱりジャイアンツのファンなんですか」
ラジオネーム『不滅の巨人』こと繁男は、乗客が憧れのラジオパーソナリティーとは気づかずに、五分間のドライブをした。
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