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第二章 走れ769
――ヒロシは激怒した。必ず、あのパーソナリティーの鼻をあかしてやらなくてはならぬと決意した。ヒロシにはラジオなどわからぬ。花のことなども知らぬ。ヒロシは一介の市民ランナーである――
頭の中で繰り返しながら、ヒロシはランニングを続ける。ことの発端は、一時間前のことだった。
「おはようございます。練習中のところ、すみません。FMしばたのものですが」
赤いスタッフジャンパーを着た女性が、遊歩道でしゃがんでいるヒロシに近づいてきた。靴ひもを結んで走りだそうとしていたヒロシは、露骨に不快な顔をした。が、意に介さず、その女性は名刺を差し出した。
『FMしばた769 ラジオパーソナリティー 小野さわ子』
ヒロシは砂を払ってゆっくり立ち上がると、スポーツサングラスを外して、小柄な相手を見下ろした。童顔で社会人というより学生バイトのようにも見える。
「ラジオ局の人が、何の用ですか」
「毎日ここで走られているのですか?」
そのパーソナリティーは、にこやかに切り出した。
「毎朝アヤメを見ているんですよね。開花状況を番組に伝えていただけないでしょうか。メールで構いませんので」
ヒロシは、さわ子の顔をまじまじと見た。厚かましい女だ。
「ただ来週の大会に向けて、練習してるだけなんだけど」
「ここのコース沿いに『アヤメ園』があるのはご存じですよね。来週のアヤメ祭りの初日まででいいんです。それくらい、お願いできますよね」
一方的な物言いに、ヒロシはむっとした。
「それで、何か得することあるんですか?」
「ラジオ局のロゴのステッカーを差し上げます! このアドレスに六時半までにメールいただければ、七時の放送に間に合います。では、ご協力ありがとうございます」
一方的にしゃべり終えると、女は名刺と小さなシールをヒロシの手に押し付けた。ぺこりと会釈をすると小走りに去って行った。ヒロシには花を見ている余裕などないのだ。名刺を乱暴に四つ折りにして、ウエストポーチに押し込んだ。
気を取り直して、一周一キロの遊歩道を十周走った。一キロあたり五分。初心者ランナーのヒロシにとっては、かなりのハイペースだ。
「今日はもう終わりにしよう」
息を整えてポーチから車のキーを取り出すと、ボロボロになった名刺が砂利に落ちた。あの女の屈託のない笑顔が浮かぶ。
「そういえばアヤメなんて、どこに咲いていたっけ」
ヒロシは、もう一周だけ走ることにした。
帰りの車の中で、ふだんは聴かないラジオをつけてみる。
《みなさん、おはようございます。時刻は午前七時となりました。さわ子のおはよう769、生放送でお送りしています》
さっきのパーソナリティーだ。
《今朝は冷え込みましたね。先ほど、アヤメ園に行ってきたのですが、風が冷たかったです。今日のアヤメは五分咲きでした。来週のアヤメ祭りまで、明日から毎朝、あるリスナーの方に開花状況をお伝えしていただくことになりました。ご協力、ありがとうございます》
そんな暇などないし、承知した覚えもないぞ。ヒロシはぶつぶつ唱えながら、荒々しくアクセルを踏んだ。
ヒロシは、今回フルマラソンに初挑戦する。体力にはもともと自信がある。学生時代にはサッカーでちょっと名を馴せたものだ。そのヒロシが、昨夏の喧嘩神輿で足を痛めた。妻のセリナはもう二度と祭りに出るなという。確かにヒロシは今年四十歳になる。もう体力的に若くはない。フルマラソンを完走して、妻を見返してやる。それまで大会のことはひた隠しにして、練習に励んでいる。
夕食のときセリナに聞いてみた。
「アヤメ祭りって、そんなに有名なのか?」
「ヒロシは興味ないかもしれないけど、四大アヤメ園って言われていて全国的に有名なのよ」
「ふぅん」
ヒロシは関心ない素振りをした。
翌朝、ヒロシはいつもより三十分早く公園に着いた。
「ただの、ランニングのついでなだけだからな」
遊歩道の中間付近からアヤメの群生地が現れる。ヒロシは行き足を止めて、スマホで写真を撮り始めた。ラジオ局にメールを送ったときには、六時半を回っていた。
《みなさん、おはようございます。時刻は午前七時十五分となりました。アヤメ園から今朝の開花状況が届いています。『紫のアヤメは七分咲きですが蕾も多くみられ、白はまだ三分咲き』だそうです。週末は気温も上がるので、ちょうど見ごろになりそうでしょうか。ラジオネーム「走るヒロシ」さん、ありがとうございます。以上、アヤメ便りのコーナーをお送りいたしました》
シール一枚とはいえ、ただでもらったら大人として恥ずかしいからな。ヒロシは言い訳をしながらラジオのスイッチを切った。
夜、ヒロシは居間のパソコンで調べ物をしていた。
「あら、珍しいじゃない。いつもはゲームの動画サイトしか見ないのに」
妻に冷やかされても、ヒロシは検索を続ける。
「ふむふむ。五十公野公園のアヤメ園には、三百品種六十万本のアヤメが群生しています、と、そんなにたくさん見てられるか。アヤメの種類の見分け方は……」
「あなた、急にランニングするとか、花の勉強とか、最近おかしいわよ。雪でも降るんじゃないかしら」
「うるさい。あっち行ってろ。ええと、アヤメと花菖蒲との違いは……」
ヒロシが熱心にメモまでしているのを、妻のセリナはけげんに見ていた。
《みなさん、おはようございます。時刻は七時二十分となりました。今朝もラジオネーム「走るヒロシ」さんから、アヤメ便りが届いています。『今朝午前六時のアヤメ園は気温十七度。紫色の早生はほぼ満開。白い中生種は四分咲きです。週末には満開になるでしょう』「走るヒロシ」さん、詳しいレポート、ありがとうございます》
メッセージを聴いてから、ランニングを再開するのが日課になっている。今日は一周四分五十秒、調子が上がっている。
セリナは、公園の駐車場へヒロシを尾行してきた。洗濯物のポケットから女の名刺が出てきたのを見つけたからだ。急にランニングを始めたのは、練習を口実に女と会っているのではないか。早朝の公園駐車場に停まっているのは、ヒロシのミニバンとセリナの軽自動車だけだった。セリナはヒロシが戻ってくるまで見張りを続けることにした。
《今日のアヤメ便りです。気温は二十度。おおむね見ごろを迎えていますが、奥の方にはつぼみもありますので、アヤメ祭りの終わり頃まで楽しめそう、とのことです。「走るヒロシ」さん、ありがとうございます。
続きまして、天気予報です。気象庁は、六月十一日、新潟県を含む北陸地方が梅雨入りしたとみられると発表しました。十三日から十四日頃は前線の活動が活発になり、県内全域で大雨となるおそれがあるということです。アヤメ祭りの初日は激しい雨になる見込みです》
ヒロシは、眉をひそめた。アヤメ祭りの初日はマラソン大会だ。
セリナの尾行は毎日続いた。ヒロシはまっすぐな性格の男だ。走ると言ったら毎日走る。浮気だとしたら、のめり込んでしまうだろう。ヒロシは確実に四分半ごとに一周してきて、駐車場の前を走りすぎていく。
あなたは何のために走っているの?
《日曜の朝、早起きラジオ769です。今朝はどんよりとした曇り空です。アメダスによる気象予報によりますと、新潟県下越地域は午前中曇りのち雨、降水確率八十パーセント、ところにより非常に強い雨が降る予報です。雷、土砂崩れなどの災害にご注意ください。
なお、本日行われる関川マラソンは、悪天候ため開催は未定という情報が入っております。出場される方は今後の情報にご注意ください》
ヒロシは今朝もアヤメ園にいた。マラソン会場の隣町、関川村へは車で二十分で行ける。アヤメ祭り初日までのレポートも今日で終わりと思うと、何か驚く報告をしたくなる。遊歩道から外れたあぜ道へ、少しだけ寄り道をしてみた。
《アヤメ祭り初日の開花状況が届いています。園内の奥まったところに、珍しい「小紫」という品種が見られるそうです。「走るヒロシ」さん、レポートありがとうございました》
ヒロシは、大会会場へ向かう山道を急いだ。対向車とぎりぎりすれ違える急カーブが続く。フロントガラスに雨滴がぽつぽつ当たる。泥だらけのシューズの中で、古傷の左足首が腫れてきていた。車を路肩に寄せて、痛み止めを一錠内服した。
《先ほどお伝えした関川マラソンのお知らせです。雨天決行が決まりました。このマラソンはアップダウンがきついことで有名なコースです。参加されるみなさん、気をつけて完走めざしてがんばってください》
開会式の宣言が済んだころ、黒雲が空を覆い、雨は本降りとなり車軸を流すような大雨となった。スタートの号砲が鳴り、ヒロシは雨中、集団の中を矢のように走り出した。
《新発田地区は小降りとなってきました。アヤメ祭りの初日、多くの人出が予想されます》
ヒロシは、練習と同じくイヤホンでラジオを聴きながら走り続ける。ひたすら足を動かし続ける単調も苦痛も、さわ子のトークが忘れさせてくれる。
《ここで、連続ラジオ朗読劇をお聴きください。太宰治『走れメロス』後編です。
――まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、メロスの足は、はたと、とまった》
ヒロシの前方に大きな水たまりが現れた。折からの豪雨で道路が冠水している。前後にランナーの姿は見えない。ヒロシがマイペースで走っている間に、ただの水たまりはさながら池となって立ち塞がったのだ。ヒロシは立ちすくんだ。水面には雨垂れが打ち、刻々と深みを増していく。関門への制限時間は刻一刻と近づいていく。イヤホンからラジオは囁く。
《時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した》
ままよ、ヒロシはくるぶしまで埋まる雨水に、足を踏み出した。靴が濡れるなどと、もう言ってはおられぬ。水底の泥に足を取られ、無様に腕をついた。ゼッケンは半ば破れ、擦りむいた手のひらに血がにじむ。南無三、ざぶざぶ水をかき分けヒロシは池を渡り切った。
《一気に峠を駈け降りたが、さすがに疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となくめまいを感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した》
荒川にかかる丸山大橋を渡りきる。どっと疲れがでた。雲の切れ間から六月の太陽が背中に照りつける。腫れた左足首の痛みが、体を支えきれない。ヒロシの足はついに動かなくなった。
《ここで一旦CMです。朗読の続きはCMのあとお楽しみください。
こちら、市役所前スタジオから見える景色は、雨が止みました。外を歩く人は傘をたたんでいます。実は私、晴れ女なんです。今日はこれからきっと、お花見日和、マラソン日和になりますよ》
マラソンは己との戦いだ。負けても誰も笑わぬ。なぜ自分を痛めつけ苦しい思いをするのか。体力のため、傷の回復のため、妻のため、練習の成果のため、アヤメのため、ラジオのため。もうどうでもいい。これほど努力したのだ。精も根も尽きたのだ。
《ラジオ朗読劇『走れメロス』続きをお聴きください。
――ふと耳に、せんせん、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目からこんこんと、何か小さくささやきながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手ですくって、一口飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労回復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である》
ヒロシの先、道の曲がり角の向こうから、喧騒が聴こえる。給水所だ。沿道の応援の声だ。険しい山道はもう終わるのだ。ヒロシは再び歩を進めた。
紙コップの水を一杯、口にする。喉に、食道に、胃の腑に染み渡る命の水だ。沿道の住民が、学生ボランティアが声援をかけ小旗を振る。ヒロシの闘志は再び灯った。
あれだけ練習したのだ。ラジオメッセージも一日も休まなかった。関門の時間制限には、まだ間がある。走れ、ヒロシ。
前のランナー集団に追いつき、追い越し、ヒロシは獣のように走った。迫りくる制限時間の時計の針の十倍も速く走った。
三十五キロ地点、ゴールまでの最終関門がヒロシの前に立ちふさがる。あと一キロ、五分で駆ければ通り抜けられる。
《ここまで、ラジオ朗読劇をお聴きいただきました。
そろそろ関川マラソンは、レース終盤を迎えている時刻です。ここで一曲お聴きください》
夏恒例のチャリティー番組の応援ソングが流れる。
最終関門は河川敷の土手道、雨上がりのぬかるみもヒロシの行き足を阻むことはできぬ。あと五百メートル、あと二分。あと百メートル、あと三十秒。
無念。ヒロシの目の前で、非情にも電光掲示板のデジタル時計は閉鎖時刻を告げた。
セリナが応援の観客から飛び出してきた。ラジオを聴いてヒロシの「アヤメ便り」を知り、車の後をつけてマラソン大会に駆けつけたのだった。今日まで夫をちらと疑った妻は、フィニッシャーズタオルをヒロシに捧げて抱擁した。
マラソンの敗者は、ひどく赤面した。
《アヤメ祭りは今月末まで開催されます。アヤメの花言葉は「よい便り」だそうです。みなさんもラジオメッセージ、どしどしお寄せください。毎日アヤメ便りをお伝えいただいた「走れヒロシ」さん、ありがとうございました》
マラソン大会の翌日、足首をテーピングしたヒロシと、セリナはアヤメ園を散歩していた。
「あなたは毎朝、ここを走っていたのね。私には大会に出ることを隠して」
「すまなかった。でも毎朝の日課も、もう終わったな」
「走るのやめちゃうの? 真の勇者は、簡単にはあきらめないわよ」
セリナはヒロシの頬を叩く仕草をした。
「ヒロシといっしょに練習して、来年のマラソン大会には私も参加するから」
セリナは、ヒロシの手を取って遊歩道を駆けだした。
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