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1.優希
息が苦しい。
「ちょっと、あんた、どうしたの?」
胸が痛い。
「真っ青だよ、大丈夫?」
このままだと、倒れる。
吹き抜けのカフェテリアに飾られた大きなクリスマスツリーが、視界の端に映る。
僕は、声をかけてきた男の腕を掴んだ。
「お⋯⋯願いだ。誰も、呼ばないで」
必死で顔を上げれば、目の前には栗色の瞳があった。
人好きのする優し気な顔立ち。少し垂れた眉が心配気にくもる。
しがみつく僕の体を支えながら、彼は近くにあった椅子を指さした。
「そこでいい?」
ふらつきながら頷くと、抱きかかえるようにして僕を運んだ。
座ったものの、自分で自分の体を支えることができない。
見かけよりもがっちりしている体に触れられていると、体が急速に楽になっていく。
僕を腕の中に抱きしめて支える姿は、傍目からはどう見えるのだろう。
これではきっと、人の誤解を招く。
必死で手を伸ばし、ポケットに残っていた薬を無理やり口に押し込んだ。
少ししたら効き始めるはず。
量は足りないかもしれないが、正気は保てる。
相手が目を丸くして見つめてきた。
「ごめん⋯⋯。もうじき、おさまるから」
「無理だろ」
頭の上から低い声が響く。彼は、ごく小さな声で囁いた。
「あんた。『クランケ』なんだろ」
びくりと震えて顔を上げれば、心配気に見つめる瞳があった。
高瀬優希との出会いは、それがきっかけだった。
同じ法学部の2年生。明るくて、人当たりが良くて世話好き。
メッセージアプリのIDを交換してすぐに、スタンプが送られてきた。
大学に来られる日があれば連絡をくれ、と言われてメッセージを送るようになった。
優希は同い年だが、僕より一学年上だ。
入学してから大学にろくに通えていない僕は、早くも1年生を繰り返している。
連絡すれば、彼はいつもカフェテリアで待っている。
革のブックカバーの表紙を付けた小説を読みながら。
優希、と呼べば顔をくしゃくしゃにして笑う。
その笑顔を見るのが好きで、頑張って外に出るようになった。
優希に会えれば、体は格段に楽になる。
僕のような『クランケ』にとって、優希のような『ドラッグ』は、最高の薬だからだ。
この世には、男女の性以外に、三種の性が存在する。
ドラッグ、クランケ、ノーマル。
最も多いのは一般人であるノーマル。そして、数が少ないのはドラッグとクランケだ。
希少なドラッグは、全人口の一割にも満たないが、どのような病人も治すことができる。
彼等はまるで、現代に降りた神のように崇められている。
そしてクランケは、生まれつき病弱で、人からは憐れまれ⋯⋯蔑まれる。
誰が定めたのか。呪いたくなるような、この世の理。
幼い頃から、僕の体は欠陥だらけだ。
この体の中全てを入れ替えることができるなら。
魂も心も、悪魔にだってくれてやる。何度そう思ったかわからない。
「理智」
大学のカフェテリアの片隅でココアを飲んでいると、優希がやってくる。
太陽の光を連想させる明るい笑顔。
彼がいるだけで、その場が明るくなっていく。
「今日は体調がよさそうだな」
「うん。久々に続けて講義を受けられてる」
優希は、紙コップのコーヒーを持って、僕の前に座った。
「王子様が来てるって、皆がちらちらお前を見てるから、すぐにわかる」
⋯⋯なんの話だ。周りを見渡せば、目が合った女子が赤くなったり、小声で囁き合ったりしていた。
「なに、王子様って」
「お前のことだよ。敏腕弁護士の息子で、繊細なイケメンくん」
「⋯⋯はあ?」
「綺麗な顔してるけど、話したことがある奴がいないって評判だ」
入学してからろくに大学に来れてもいないのだから、話す相手もいない。
みんな、どこで自分のことを知るのだろう。
本当にそれは、僕のことなんだろうか。
怪訝な顔に気づいたのか、優希は言った。
「人はな、自分の推しはすぐに見つけるもんなんだよ。特に女子は目が早い」
優希は手元のスマホをタップした後、画像を僕に向けた。
父だった。弁護士をしている父は、時々コメントを求められてTVに出演することがある。
そんなことも知られていたとは。
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