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2.彼方
「お前の親父さんは、結構有名人なんだよ。俺も憧れてて」
じっと優希の顔を見れば、僅かに赤くなって、ふいと顔を反らす。
「⋯⋯それに、お前に憧れてる奴も、たくさんいる」
「僕なんか見ても、いいことないと思うけど」
「理智は美人だからなあ。男の間でも、時々話題になる」
たしかに昔から、変に絡まれるのは男の方が多かった。
外に出る機会が少ないのに、どこで嗅ぎつけてくるのか。
ひたひたと後ろをついてくる気配。物陰に連れ込まれそうになったことも、一度や二度じゃない。
「美人って、それは女の子に言う言葉でしょ。優希、お客さんだよ」
面倒見のいい優希の許には、しょっちゅう人がやってくる。
後輩らしい女子たちが、さっきから後ろで声を掛けるタイミングを計っていた。
優希が振り返って話し始めると弾んだ声が返ってくる。
長くなりそうな気配を感じて、僕は立ち上がった。
「じゃあ、またね」
「えっ! 理智!!」
ばいばい、と紙コップを持たない方で手を振った。
何か言う声がしたけれど、さっさとカフェテリアを出る。
⋯⋯薬を飲んでいるのに。
優希から離れた途端に、ふっと体が怠くなる。
師走の風を吸い込めば、喉が痛んで気管支が苦しくなる。
──触れてしまえば、楽になるのに。
悪魔の声が優しく耳に響く。そんなことはわかっている。
そして、一旦知ってしまえば取り返しがつかなくなることも。
家に帰りたくない。
できるだけ遠くへ。
誰も知らないところへ行ってしまいたい。
考えるのはいつも、そんなことばかりだった。
もうすぐクリスマスがやってくる。
希望と、絶望の交差する日が。
正門を出て、まっすぐに駅に続く階段を下りる。
駅至近の大学の前には、巨大なアウトレットモールがあった。
モールの中央には、駅までの道が伸びていて、行き交う人々で賑わっている。
クリスマスの華やかな飾りに溢れたウインドウを横目に歩く。
⋯⋯気配を感じて、足が止まった。
等間隔に設置された街灯の下に立つ男。
仕立てのいいスーツに上質なコート。
涼し気な目元に微笑みを浮かべた姿は、作られた空間から切り取ったように見える。
誰もが目を奪われるような、整った顔が近づいてきた。
「⋯⋯彼方。なんで」
「いつまでも連絡をくれないから、迎えに来た」
革手袋をした手が僕の前に差し出される。
思わずその手を取ってしまいそうになる気持ちを抑えて、ポケットに両手を入れた。
「食事に行こう」
「さっきココア飲んだばかりだし、お腹空いてない」
「店を予約した」
「話を聞かないのは、いつからなんだろうな」
ため息をついて呟けば、形のいい眉が顰められる。
わかっている。昔は絶対、無理強いなんかしなかった。
彼方が強引になったのは、僕がろくに返事をしなくなってからだ。
「車が待ってる」という言葉を、僕は断った。
馴染みのフレンチレストランは、駅から少し離れた場所にある。
彼方は僕の体力を少しでも、もたせようとしてくれる。
けれど、僕は自分の足で歩きたかった。
駅を抜けて、二人で大通りを歩く。
並木道にはずっと、電飾の明かりが続いていた。LEDの青い光は、寒々しくも美しい。
歩くうちに少しずつ呼吸が乱れてくると、彼方はそっと隣に並ぶ。
「⋯⋯腕に触れてもいい?」
彼方は昔から、僕が気を使わないですむように、言葉を選ぶ。
見栄を張っても仕方がない。黙って頷けば、彼方は僕の腕を握る。
強張った体の空気が一気に緩んでいく。
──クランケは、ドラッグがいなければ生きられない。
何度となく繰り返された言葉が耳をよぎる。
優しい微笑よりも彼の体から醸し出される空気が、この体を癒す。
その事実が、たまらなく心をかき乱した。
「お待ちしておりました」
螺旋状の階段を上ると、隠れ家のような店がある。
扉を開ければ、店内は静かだった。
僕たちの他には、二人連れが二組ほどいるだけだ。
向かい合わせの席ではなく、奥のL字型の一角に案内された。
「個室が空いてなくて、ごめん」
「そんなの、謝らなくていい」
外での食事に誘うとき、彼方は必ず個室を予約する。
僕の具合が悪くなってもすぐに対応できるように。
左利きの彼方は、僕の斜め左に座る。テーブルの下で、僕の膝が彼方の脚に当たった。
「あ、ごめ⋯⋯」
「そのままで」
彼方は静かに言った。
僕は黙ってうつむく。
自分の体の一部が彼方の体に触れていれば、つらくはならない。
奥の席を予約したのも、このためだったのだろう。
ウエイターがやって来て、メニューを差し出す。
言われるままに頷けば、今夜のお薦めコースに決まった。
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