ヒイラギ

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「死んでるの?」  瞼を上げると、奇妙な女が立っていた。風が吹いている訳でもないのに長い黒髪がたなびいて、その顔色は伺えない。服装は目に映える深紅のワンピースで、その右手には30㎝はありそうな些か古風過ぎる大きな鍵が握られていた。地面には一昨日の夜に降り積もった雪がまだ薄っすらと残っていて、森の中で見る彼女の出で立ちは幻想的と言っても差支えが無い。季節外れのワンピース、そして足が無いという事を差し引けばだが。  何か返答した方が良いんだろう。でも、どう考えても気乗りはしない。幽霊か、ただの変質者か。どちらも、おいそれと話しかけたいタイプの人間じゃない。左足に力を入れてみるが、ピクリとも動かない。代わりに、波の様に周期的な鈍痛のペースが少し早まっただけだ。やはり、折れている。逃げる事は叶わない。  ゆっくりと女が近づいてくる。足音は無く、ワンピースのスカートの端が地面を擦る音だけが聞こえる。怖くて俺は反射的に瞼を閉じた。いっそ走馬燈が浮かんでくれたら思い出に浸れるのに。脳裏に浮かぶのは、目の前にいた女の姿だけだ。たなびく黒髪、深紅のワンピース、大きな鍵。……大きな鍵か。馬鹿げた発想だ。でも、これが成功すれば帰れるかもしれない。  意を決して、顔を上げると女の頭部が目の前にあった。女の髪が頬を撫でる。髪の隙間から女の顔が露わになる。目があるべき場所は潰れて赤い肉が詰まっていた。  ちくしょう! 思ったよりもホラーだ! 「なんだ。やっぱり、生きてるじゃない」 「いやまぁ、そうだね」 「あなた、こんな所で何してるの?」 「登山をね」  彼女は少し遠ざかって、少し考えてから首を傾げた。 「どう見ても、山を登ってる風には見えないけど。座ってるだけじゃない」 「……登山をしていたんだけど、転んじゃってね。足を強打したんだ。痛みが引くまで休もうと思ったんだけどね」  言い訳するように、ジーンズを捲り上げて左足を露出させる。患部の肌は浅黒く変色し、マンゴーみたいに膨れ上がっていた。 「酷い怪我! 人を呼んでこようか?」 「……いや、それには及ばない! 見た目ほど酷い訳じゃ無いんだ!」 「本当なの?」  これ以上、不審者を増やすのは避けたかった。 「聞き返すようだけど、君は何をしているんだ?」 「私? えっと、……そうね。お腹が空いたの。貴方が死んでたら食べようと思って」  山姥の類だったか。 「多分俺、美味しくないよ? いや、絶対不味いよ。不健康だし」 「……貴方、趣味は?」 「登山とランニングかな」 「健康的ね」 「しまった!」  アピール失敗。 「食べられるのは嫌だなぁ」 「私も生きる為なの。貴方だって、日々色んな物を食べて生きてきた訳でしょ?」 「そう言われると辛いものがあるけどさ。君とは意思疎通が出来るみたいだし、交渉の余地があるのならするべきだろ?」 「貴方を見逃すメリットが私には無いわ」 「……例えば、君が見逃してくれて俺が街に戻れたとしよう。君も俺の後を付いてくる。街に行けば、色んな食べ物がある。君はいつでも好きな食事が出来る」 「魅力的な提案だけど、無理ね。この顔と足じゃ街には溶け込めない」  潰れた瞳が訴えかける様に俺を捉えていた。 「いや、近頃の街の人は他人に無関心だよ? 足なんて意識して見ない。最近は外国人観光客も増えてるし。髪型を整えて、サングラスを掛ければ意外といけるんじゃないかな。ちょっと、これ掛けてみてよ」  俺は胸ポケットに入れていたサングラスを手渡す。 「そんな簡単にいくわけないじゃない」  そう言いながらも彼女は俺のサングラスをかけて、髪を手櫛で整え、ポージングまでしてくれた。 「どう?」 「悪くない。レッドカーペットの上とかを歩いていそう」 「悪くない?」 「綺麗です」  俺は訂正した。スマートフォンで写真を撮り彼女に見せる。彼女は何も言わず無言で頷いた。 「気に入ったかな?」 「ええ、確かに悪くないかも」 「……そのサングラスと、君の持っている鍵を交換してくれないか?」 「鍵?」  右手に持った大きな鍵が威圧的にくるくると回る。 「君を街に案内するには、この足をどうにかしないといけない。……もし、君が良ければ」 「別にいいけど。こんな物どうするの?」  彼女が鍵を投げて渡す。それは見た目に反して軽い。 「これを添え木に利用出来ないかなと思ってね」  ジーンズに付けていたベルトを外し、鍵を左足に当てる。ヒヤリとした金属の冷たさが心地いい。マンゴーを傷つけない様にベルトを優しく巻いて固定する。でも、それは想像していたよりも随分と心許ない。立ち上がってみると、鍵は足からするりと抜け落ちた。 「ダメそうじゃない?」 「……ダメみたいだね」  沈黙が辺りを包み込んだ。    俺は無言で座り直し、足に巻き付けたベルトを外して頭を抱えていた。彼女は呆れたように溜め息をついた。 「やれやれ。ねぇ、何が必要なの?」 「え?」 「森の中って結構色んな物が落ちてるのよ。貴方の必要な物があるなら持ってきてあげる」 「ホントかい⁉ 君って見かけによらずいい人だね。じゃあ、何か細長い板とか紐とかってある?」 「多分あるんじゃないかな。ちょっと待ってて」  そう言うと、彼女はホバーリング飛行で森の中に消えてしまった。俺は嬉々として待っていたが、10分経っても、20分経っても彼女は帰ってこなかった。太陽が傾き辺りが暗くなり、暗闇と不安が同調する。沸き立つ不安は脳味噌を煮え滾らせ、口からネガティブな思考が際限なく吹きこぼれた。 「足を固定出来そうな添え木を持ってくるなんてのは口実で、実際には俺を解体する準備をしているんじゃないか。……多分、そうに違いない。俺は人知れずこの寒空の下錆びた鉈か何かで解体されて、あの女に食べられちまうんだ。多分切れ味が悪いから、彼女は何回も何回も鉈を振り落とす。中々死ねずに辛いだろうな。一振り毎に血飛沫が顔にかかって、肉のブチンと千切れる音が頭の中に響く。腱が切れて手足の感覚は無いのに、神経は空気に触れるだけで高らかな悲鳴を上げるんだ。嗚呼、スプラッタ」 「何をブツブツ言ってるのよ」 「うわ⁉ びっくりした‼」  彼女は両手一杯に何かを持って目の前に立っていた。心臓に悪い。彼女は、がしゃんという音をたてて、持っていた物を足元に落とした。先が輪っかになったロープ、血の付いたタオル、折れたスキー板など様々なガラクタがあった。 「これだけあれば、大丈夫? それより、今なんて言ってたの」 「別に? 何でもないよ? 俺はずっと君を信じて待ってたんだ。……しかし、色々持ってきたね」 「この辺りは登山と自殺の名所なの。遺留品なら沢山あるのよ」 「……へぇ、そうなんだ」  聞かなきゃよかった。  余計な事を考えない様に、急いで準備する。タオルをクッションにしてスキー板と鍵で足を挟み、ロープでぐるぐる巻きにした。 「歩けそう?」  立ち上がってみても、今度は外れそうな気配はない。木々の間を試しに歩いてみるが、痛みも感じなかった。 「ありがとう。大丈夫みたいだ。君には感謝しきれないよ」 「感謝するのは、まだ早いんじゃない? 貴方が街に帰れなかったら、私は胃袋を満たす為に君を食べるしかないんだから」 「オーケー、急いで帰ります」  俺は激しく頷いた。
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