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<13>
ふと、反対側の廊下で物音が聞こえる。
それは慌てた人の足音のようだった。
あちこちを迷い、その後に徐々に近づいてきたその音がドアの目の前で止まる。
開けっぱなしの扉から飛び込んできた人物の顔に、2人は目を丸くした。
「やっぱりいた……やっぱりいたのね。外に、出てきていたのね。ーーー御免なさい、こんなつもりじゃなかった。全部、わたしのせいだわ」
そう言って黒い影に駆け寄り、闇のように佇むその姿を崩折れるように抱きしめる。
柏木と少女は、呆然とその姿を見つめた。
「水無子さん……」
「奥様……」
「ーーーこの子は、わたしがちょうど二十歳くらいの時に描いた絵のモチーフなの」
モデルは、他でもないこの「わたし」。
絵が上手くなりたくて、でも良い作品が描けなくて、自分の絵が大嫌いだった。上手い人を見ては妬んでばかりで、恨めしく思う自分も大嫌いだった。そんな気持ちを吐き出したくて、そのためにこの子を描いたの。わたしは、嫉妬に塗れた醜い化物。見た目は真っ黒の影みたいに、闇に塗れている。この子はーーー紛れもない「わたし自身の心の姿」なの。
黒い影はすっかり大人しくなり、座った水無子の膝に抱かれたまま微動だにしない。
「で、でもこの絵に描かれていたのは『あたし』じゃない! 何でコイツが出てくるんですか!? こんな奴、あたしの絵の中にはいなかったわ」
先ほど首を絞められた恐怖からか、未だに柏木の後ろに隠れるように立っている少女が叫ぶ。
「……進太朗さんの仕業ですよね?」
「やっぱり、柏木さんには話していたのね。そう、あなたの言う通り。この子『紅いドレスの少女』は、あの人が勝手にわたしの絵の上に塗り替えて、描き直したものなのよ」
……あなたは美しい。
人の心を打つ絵を生み出そうと、必死で悩みもがきながら考え、描く姿は。
眩しいほどに真っ直ぐで、まるで瑞々しい少女のようだ。
進太朗はそう言って、勝手に描き変えてしまった絵を差し出しながら困ったように笑った。
当時の水無子は己の才能の無さに悩むばかりで、正直色恋沙汰どころではなかった。
けれど、その出来事は。
幼馴染でもあり、そして美大の同窓生にもなった進太朗ーーー彼から寄せられる想いに、戸惑うばかりだった彼女に。
この人と共に生きていこう、という決意をさせた人生最大の転機だったのだ。
「それからあの人とわたしは結婚して、2人で絵を描いて『虚海止水』として共同の筆名で創作活動を始めたの。モチーフと下絵はわたし、彩色と仕上げは彼が。20年ほど前のことよ。当時はちょうどインターネットが普及し始めた頃でね、良くも悪くもわたしたちの活動に影響を及ぼした」
まだ無名だった当時、画商などに相手にされるはずもなく。
取り急ぎ2人分の糊口を凌ぐため、絵の売買は殆どが世話になっていた人伝てか、アマチュア作家たちのオリジナル作品を扱う同人イベントで行っていた。
それがネットが発達するにつれ、販売の場も委託したサイトでの通販に徐々に切り替えていったのだった。
「お陰で、人前に出る機会や必要性がぐんと少なくなって。その点ではわたしも彼も助かっていたの。お互い、社交的な性格ではなかったしね。でも、同時にインターネットの悪い面も目の当たりにしたわ」
ーーーそれは、大きく分けて二つ。
一つはネット特有の真偽も分からぬまま、面白おかしく書かれた怪異の噂。
「絵のモチーフが出てくる怪奇画」。
どこかで売った絵から出てきたのを偶然見てしまった人間がいたのだろう。
それだけならまだ、信じる奴が勝手に信じていれば良いと無視しようとも思った。
「……でもね。わたしは高校生の時に描いた、森の中にいる白い服の人物画から本人が出てきた瞬間を偶然見てしまった。そんなことが起きたのはその時が初めてだったから、咄嗟に固まってしまって。彼女はすぐ絵に戻ってしまったの。だから、きっと夢でも見たのかと思っていたわ」
だが。その現象に向き合わなかったことは、結局二つ目の問題を生み出してしまった。
今日でも、ありとあらゆるジャンルのネット界隈を騒がせる害悪。
「……転売よ。『虚海止水の絵は、霊感のある者が所有するとモチーフが外に飛び出してくる』という噂が囁かれて。そのせいで、皮肉にもわたし達の名前が飛躍的に有名になった。絵の価値も、どんどん上がっていった。でも、そんなこと私たちは望んでなかった!」
闇色の少女を搔き抱いたまま、告白の言葉を絞り出す水無子を、柏木と紅の少女は黙って見つめていることしかできない。
ーーー何よりも困ったのは、その噂がよくある怪奇潭の作り話ではなく、紛れもない事実であったことだった。
……火のないところに煙は立たない。
水無子は幼い頃から時々、常人には見えないものが見えた。俗に言う見鬼の才というものだ。
そして、それは進太朗にはなかった。
「それ以前にも、わたしが絵を描いた時に、何か中の人物が動いたような気がしたことは何度かあった。明確に出てきたモチーフと初めて会話をしたのは、19歳の頃だったわ」
動揺して口も聴けない水無子に、その時出てきた静物画の『花瓶』は言った。
こんにちは、我らの主人。
僕たちを生み出してくれたこと、とても嬉しく思います。
ーーーその時、『彼』に言ったのだ。
こんなことが公になっては、自分はとても生きていけない。
どうか絵のモチーフたちには「決して外に出てこないように」と。
それを告げた時、顔のない花瓶はとても哀しそうな顔をしたように思う。
でも水無子の言うことも理解できた彼は「では自分たちが本当に信頼できる、秘密を守れる人間に出逢えたら出てきても良いですか」と尋ねた。
その後は、一層絵を譲る相手を吟味するようになった。
そしてモチーフたちは水無子の意思を尊重し、外に出てくることは殆どなくなった。
ごく僅かの例外を除いて。
それでも、自分たちはずっと絵を描いて生活を立ててきた。
何故なら2人とも、それ以外にできることが無かったから。
「……そんな生活が。去年、一変してしまわれたんですね」
控えめに柏木が言葉を挟む。
ふうっと息を吐いて、水無子は言葉を続けた。
「ええ、あの人が病で亡くなってしまって。まだわたしがいるから『虚海が亡くなった』とは公表していないけれどね。元々心臓病の薬は飲んでいたけど、あんなにあっけなく死んじゃうとは思わなかった」
水無子が少しだけ遠い目をする。
「これからどうやって暮らしていこうと思ったわ。柏木さんは知っていると思うけど、『虚海止水』の絵は夫が構想やモチーフ・わたしが色を載せることで完成していたの。だから急に作風が変わったら、騒がれてわたしたちの絵の秘密が暴かれるかもしれない。ずっと二人で守って来た作品たちが、好奇心からネットや一部のマスコミで騒がれる。それだけは嫌だった」
「知ってます。だから奥様は、もう絵は描かないわねって『あたしたち』の前で言った。でも……」
紅いドレスの少女が口籠ると、水無子は寂しげに笑った。
「……ええ。作品を作ることができなくなっても、これまでの蓄えでしばらくはやっていけると思っていたから。後のことはその時に考えようって思ってたから、まさか自分まで死ぬことなんて考えなかったのよ」
柏木が思わず、椅子から立ち上がる。
「なんだって?! 水無子さん、それはどういう」
「夫が亡くなった病院でね。わたしも時々体調を崩すことがあったから、ついででもないんだけど検査をしてもらったの。まさか自分まで乳がんの末期で、既に治療が難しいところまで進行してるなんて思わなかった」
外の稲妻がピカッと光る。
その光は薄暗い部屋を一瞬だけ照らし出し、続く轟音が窓ガラスをビリビリと震わせた。
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