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ーーー幻想画家・虚海止水(きょかいしすい・無論、本名ではない)の作品展示会が開かれると知り合いの画商から聞いた時、目の色が変わりそうになった。 20年近く前ーーー 学生時代、僕がオリジナル作品のみを扱う同人イベントに参加した時のこと。 そこでかの作家のスペースを訪れ、衝撃を受けたことをよく覚えている。 狭い机に所狭しと、ファンタジックな風景画のイラストが並べてあった。 そこでは周りのアマチュア作家たちがやっているように、ポストカードやポスター等のグッズに加工することなく、生の原画をそのまま頒布していた。 『購入後の転売は一切禁止。不要になったら燃やすか捨ててください』 赤マジックで大きく書かれた貼り紙だけが、嫌に目立っている。 近くの一般参加者たちが近くの人気作家の品物を買い求める中で、見ている人はまばらだったが。 『その絵』を見た時、まるで自分が額の景色の中に立っているような錯覚を覚えた。 闇のように暗い、森の中を描いた風景。 見る者を圧倒するような黒に紛れて、顔のわからない人物が一人佇んでいた。 白いワンピースを着て、後ろ向きに立っている。 絵の左奥に一点だけ月明かりのような明るい部分があり、そこからさす僅かな光が、闇の中に佇む誰かの輪郭をかろうじて浮き出してみせている。 髪の長い、若い女性のようだった。 理由は分からないが、その絵だけ『非売品、見本』と書かれていた。 ーーーどうしても欲しくなった。 他の絵を買う際に併せて交渉してみたが、これは展示品だと言って売っては貰えなかった。 聞いてみると、地味な服を着たその女性は作家本人ではなく。 代理で売り子をしに来た友人で、この絵だけは展示のみにしてくれと頼まれたとのことだった。 ……そこで魔が刺した。 購入直後、後に来た客の相手をしている隙をついて、隠すように手に取り。 そのまま人混みに紛れて持ち去ってしまった。 あっ、という小さな声が背後で聞こえたが、売り子の女性以外には気づかれなかったようだ。 今ならばツイッター等で被害情報として拡散もされただろうが、当時はそんなツールは発達していなかったから。 帰ってから、盗んだものではない絵を一枚だけ「こんなものを買って来た」と、当時流行っていた個人ブログで軽率に自慢したのが全てのきっかけだった。 突然、記事のコメント欄で、かの作家の絵を売って欲しいと依頼してくる輩が大量に湧いて出たのである。 個々のメールに切り替えてやりとりしているうち、思わぬ高額の提示に釣られて非売品の絵のことを話してしまったのは未だに失敗だったと思っている。 結局、とんでもない金額の代金を振り込むと言ってきた人間に軽率に売ってしまったのだ。 当時は貧乏学生だった自分には、あまりにも魅力的な大金だったから。 そして自分が『その噂』を知ったのは、売ってしまった後で作者についての情報をあれこれ調べてからのこと。 「被写体が現実化する絵……だと?」 にわかには信じられない話だったが。 アマチュア画家・ペンネーム『虚海止水』の作品には「霊感の強い人間が手に入れると、絵の中のモチーフが外に出てくることがある」という噂がついていたのだった。 無論、大っぴらに出ていたことではない。 コアなイラストマニアや、絵画収集家の一部の間でひっそりと囁かれていたのであった。 しかし虚海はかなりの人嫌いらしく、イベントにも本人は出てこない。予告すらもしない。 件の「曰く」のために奇異の目で見られることが嫌だったのか、いつも友人か誰かに販売を任せ、サークル名や作者名まで変えて作品を出しているという。 そのため、たまたま作品を見つけられた人間だけが彼の絵を入手できることになり、怪奇マニアの間で価値が跳ね上がっていったらしい。 「……一休さんの虎じゃあるまいし。馬鹿馬鹿しい」 当時の自分はそう思って一蹴したし、そんな噂を信じて大金を出すバカな大人たちがたくさんいることにも呆れた。 確かに、彼の絵は魅力的だった。 吸い込まれそうな雰囲気がある。自分だって感じた。 だが、注目すべきはそこじゃない。 この作家の絵を欲しがる奇人・変人が、世の中には穿いて捨てるほどいるということだった。 ---社会人となって、はや数年。 現在は、表向きはネットを駆使したイラストや絵画の販売サイトを管理している。 時々、稀有な才能を持ってはいるが金のない若者たちが、己の生み出した美しい作品を安値で売りこもうとしているのを見かける。 おかげで、自分のような何の才もない者が苦もなく大儲けすることができるのだが。 「常連の顧客には、大金を出しても虚海の絵を欲しがるモノ好きが山ほどいるんだ」 今回の「あの企画」は、降って湧いたような幸運だった。 ふと、絵画展でいつも遭遇する壮年の男性の姿が思い浮かぶ。 「……何が『彼女の美しさ』だ。そんなものはどうでも良い。あの絵の価値はそこじゃない」 以前、立ち話をした時。 半年ほど前に身体を壊して休職して以来、体力が戻るまでは趣味で絵を見たり描いたりしているとか言っていた。 あんなセンチメンタルな感想しか持たない、絵の価値もよく分からぬオヤジにあの絵をくれてやるものか。 「……要は、画家にこの僕を選ばせればいいんだからな」 口先三寸、己の舌にだけは自信がある。 「この勝負、勝たせてもらいますよ。柏木さん」 青年は小さく呟いて、笑った。
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