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流れていく水がまるで私たち二人の関係性をまっさらに洗い流してくれる様な気がして、私はだらしなく開いた水道の蛇口を黙ったまま傍観していた。皿を洗っていた修司の手は細かい洗剤の泡に包まれたまま微動だにせずに固まっていて、彼の目だけが壊れた人形の様ににギョロギョロと動いて私の目や鼻や頬、胸、骨盤、爪先まで余すことなく観察している。そして彼は私がいきなり吐き捨てる様に言い放った「離婚して」って言う言葉に視覚以外の機能をフリーズさせたかの様に立ち尽くしている。シンクに流れ続ける水が修司の着ていたグレーのスウェットを濡らして水玉模様を作っていく。私は彼がいつも着ているこのスウェットが嫌いだった。三十五にもなるのにあの安っぽい毛玉だらけのスウェットを着て安いフィルター無しのタバコを吸っている修司と一緒にいるとなんだか惨めな気持ちになったし、彼のことを蔑みたくもなった。兄弟だと言う周りの人間たちは大人になり損ねた中途半端なチンピラばかりだったし、無駄に毎週末やりたがるバーベキューの片付けはいつも私の役目だったし、そんな彼を崇拝する売れないバンドマンの下らなない信仰心には吐き気を覚える。とにかく私は修司の事が嫌いだった。いや、少なくとも一ヶ月前までは愛していた。週刊誌に彼の不倫現場の記事が出るまでは私は彼のことを一番に考えて生きていた。彼がオリコンチャートに乗らなくなっても、アリーナから小さなライブハウスに活躍の場を変えても、作る曲が昔ほど輝きに満ち溢れていなくても、私は彼のことを尊敬し、尊重していた。しかし修司はそんな私の思いを踏みにじり、安い性欲と刺激と瑞々しい肌にうつつをぬかし、どこの誰かもわからない様な地下アイドルと浮気をした。彼のSNSを片っ端から削除してコレクションとして集めていたギブソンのギターを二本叩き折って、彼の顔面に二発拳を打ち付けたところで私は全てが無駄に思えて、棚に飾られた彼のレコードに唾を吐きかけた。バンドマンなんかと結婚するんじゃなかった。そう吐き捨てると修司は「会ったときからバンドマンだったろ」と言い訳とも開き直りともとれるようなわけのわからないことを言った。それにまた腹を立ててそのレコードを真っ二つに割ったのが丁度一ヶ月前だ。
修司は有名なバンドのギタリストだった。作詞作曲全て彼が行って出す曲はどれもタイアップがついて爆発的なヒットを叩き出していた。彼は神のように崇められ、まるで宗教のように世間を熱中させ、教祖のように世間に彼の音楽を布教していった。私も彼に信仰心を抱いていた一人だ。彼が人気絶頂の時に私は音楽番組で彼の演奏を聞いてすぐにファンになった。彼も当時モデルとして活躍していた私のことを知っていたみたいですぐに連絡先を聞いてきた。会って二回目で私たちは付き合い始めた。彼にはあと何人か付き合っている女の子がいたみたいだったけどその頃はそんなこと気にならなかった。むしろ競争本能を刺激されて「他に女がいる?それがどうしたの?」って私に注意してくる女友達を一掃していた。
今思えばあれが若ゆえのおごりと盲目性の強い恋愛だったことに気づく。そんな中で修司がなぜ私と結婚を決意したのかはわからない。モデルの妻が欲しかったのか、聞き分けがいい女だと思われたのか、初めて振る舞った手料理のホワイトソースのラザニアが美味しかったからなのか、その真実は彼しか知り得ないことだ。だから浮気した理由も彼しか知り得ない。私が今年三十になったからか、雑誌のインタビューで結婚生活の不満を漏らしたからか、彼の嫌いな元彼の東道理央の曲を口ずさんでいたから私のことを嫌いになって浮気したのかもしれない。でも実際は特に私に不満もなく目の前に熱々のラーメンがあったから伸びないうちに食べた、みたいな下らない理由かもしれない。でもその理由がどうであれ私は彼が浮気をしたという事実に傷ついていたし、その事実が週刊誌にすっぱ抜かれて世間に広まってしまったことに言い知れぬ怒りと羞恥を抱いていた。だから私が彼に離婚を申し出たことは彼の本能的な言動と同じで至極真っ当のように思える。
「いや、離婚ってなんだよ」
ようやく口を開けて人間の言葉を話した修司に私は瞬きをする。彼は手をゆすぐと蛇口のレバーを力任せに下に下げた。止まった水道の音のせいで私たちの間にしんとした空気が流れ、私は彼がもう一度水を流してくれることを強く願った。
「もう無理。やっぱりやり直すとか考えられない」
「なんだよそれ。勝手に決めるなよ」
「なんで修司方が悪いのに開き直るわけ?」
「ジュリ、やめろよ。別れるとかありえないから。絶対にない。俺がお前と別れるなんてありえないから」
「でも修司は私のこと好きじゃないんでしょ?あの地下アイドルがいいんでしょ?」
「違うよ。俺にはジュリだけだよ」
「昔の修司はそんな言い方しなかった」
そう私が怒鳴ると彼は困ったような顔をした。昔ってなんだよ、そう小さくつぶやく彼に私はテーブルの上に置いてあったウォッカの空き瓶を投げつけた。その空き瓶が彼の左肩にぶつかり「いてっ」という情けない声を聞いて私は更に苛立ちを膨らませていく。出会った頃の修司はこんな情けない男じゃなかった。彼は余るほど金があるはずなのに安いタバコを吸いながらギターを弾いて、私が彼の作る音楽に意見しようものなら灰皿が顔すれすれに飛んできた。ツアーで少し会わない間に増えている彼の刺青に嫌気がさすこともあったけど、その腕で抱きしめられるといつも新しい男に抱かれているような新鮮さとときめきがあった。彼の歌の中で私は女優にだって捨て猫にだって場末の水商売の女にだって何にでもなれた。彼の歌を聞いていると自分がいんな人間になれるような、自分の中にいろんな人間がいるような気になった。でも今の修司はそんな歌を作れる才能がない。彼の才能は無限に湧き出る泉のもののように思っていたが、その透明な濁りない水が枯渇する瞬間はある日突然に訪れた。まるで期限が決められていたみたいにある日突然彼は音楽が作れなくなった。
「女に逃げてるだけじゃない」
「違うよ」
「さっきから違う違うって何が違うのよ!音楽が作れないから女遊びに逃げてるだけでしょ?毎晩酒飲んで、下らない仲間とつるんで遊んで、ばっかみたい」
そう言って立ち上がり二階へ続く階段を駆け上がると背中から「俺にはジュリだけだよ」って声が聞こえて私はまた胸の奥で煮えたぎる怒りのマグマが爆発しそうになった。うるさい、黙れ、そう叫びながら寝室に入ると思い切り叫んで机に置かれていた紙を破り捨てた。きっと彼が作詞していたものだろう。もうろくな音楽も作れないくせにこんなの無駄だ。
怒りに任せものすごい力で階段を駆け上がってきたせいか足の踵がじんじんと痛んだ。その痛みにさらにイラついて泣いてしまいたくなったけど明日の撮影のことを考えたら泣くことが億劫になる。泣いた後に腫れた目を二時間かけて冷やし、むくんだ顔をわざわざエステで一時間かけて元に戻す方が泣くよりも労力を使う。人前に出る仕事を始めてから私は満足に泣いたことがない。明日の仕事の事ばかり考えて私はいつも生きている。それは私が出産に失敗したあの日から変わることはない。いや、あの出産を境に私も修司も変わってしまった。
結婚して二ヶ月経った頃、私は妊娠していることに気づいた。一年前のことだ。男の子だった。あんなに突っ張っていて滅多なことでは驚かない修司が私の「妊娠した」って言葉に飲んでいたビールを吹き出し二秒間フリーズして、次の瞬間「俺が父親になるのか」と立ち上がって叫んだ時、私は猛烈にこの人の子供が欲しいと願った。あと少し二人の時間を楽しんで子供は二、三年後につくればいいって思っていたのに、私は喜ぶ彼の姿を見て今すぐにでも産んで彼に愛おしい我が子を抱かせてあげたくなった。今思えばこれが初めて抱いた母性なのかもしれない。私は昔から母性ってものが欠落した女だった。彼氏の面倒を見たり、料理、洗濯、家事なんてしたくなかったし、男が甘えてくるのが気持ち悪いとすら思っていた。修司と付き合う前に二年間付き合っていた東道理央は彼と同じバンドマンだった。似たようなロックバンドで彼も理央もギタリストだったけど性格は真逆だった。私の機嫌なんか知ったこっちゃないって修司と、いつも優しくて私に微熱があるだけで大騒ぎする理央。客観的に見たら理央の方が一緒にいて幸せになれる男なのだろう。でも私は彼を捨てて修司と付き合った。理央の私の機嫌を伺ってくるような目、心配してるんだよという言葉、私がイライラして物に当たると子犬のような怯えた目で見上げてくるところ、そのどれもに腹が立った。世間では母性本能をくすぐるって人気だった理央のルックスや態度に私は全く惹かれなかった。それなのに二年も付き合い続けたのはひとえに理央の努力と我慢の賜物だろう。
理央は私が修司と結婚するときもおめでとうと連絡をしてきた。私の妊娠が発覚してテレビで報道されるとまだ男の子か女の子か分かりもしないのにベビー服を事務所に送りつけてきた。修司に見つかると彼は怒り狂って理央をボコボコにしてしまうと思ったからマネージャーにダンボールごと処分してもらった。そして私の死産がわかるとすぐに電話をしてきた。何かいるものない?辛くない?体調は?なんでも言って、いつでも駆けつけるから。そんな電話を聞きながら私は修司の事を考えていた。
妊娠七ヶ月目、私は家で急に吐き気をもよおしたかと思ったら倒れて意識を失っていた。病院に運ばれたときにはもう目が覚めていて自分が倒れたという事と、初めて意識を失ったことに対するショックに体が硬直し、私を診察する医者の曇った顔を見て色んなことを瞬時に察知した。急いでレコーディングスタジオから駆けつけた修司が病室のドアを開けた瞬間、私は堪えていた涙がどっと溢れて止まらなかった。その涙を見て勘のいい修司はすぐに私の中にある新しい命が駄目になったことに気づいた。ごめんなさい、そう謝る私を黙って抱き寄せ、彼は初めて私の前で涙を流した。でも彼は手術の日病室には現れなかった。着信を知らせるスマホには理央の名前しか表示されず、修司はその日から狂っていった。音楽が作れなくなり、酒に溺れ、メンタルクリニックでもらった明らかに必要のない向精神薬をウォッカで流し込んだ。そんな彼の姿を見て私は嫌ってほど思い知らされた。彼を駄目にしたのは自分だって事実は紛れもない現実なのだ。
「ジュリ、大丈夫?」
そっと寝室の扉が開いて修司は膝を抱えてベットの上でうずくまる私の肩を優しく抱いた。
「ごめん。私のせいだ。私のせいで修司は駄目になった」
「そんなことない」
「私が修司のこと壊したの」
そう言うと修司は私を強く抱きしめて「愛してるよ」と言った。その言葉を聞いて瞬きをすると勝手に涙が溢れた。生まれて初めて私にこんな死にそうなほど苦しい「愛おしい」と思う感情を植え付けた男は私のせいで壊れている。私は彼を解放してあげたかった。それが修司にできる最後の罪滅ぼしだと思えた。浮気をしたことに怒っているんじゃない。彼が私と一緒にこの地獄を乗り越える勇気がないことに落胆している。でも彼を殴って鼓舞したところでそれは全て無駄な努力だ。
「修司、私、修司のために別れる。じゃないと修司もっとおかしくなっちゃう」
「俺は大丈夫だから」
「そんなことない。私のせいで修司はおかしくなった。音楽だってつくれなくなって、全部私のせいで」
そう泣いても修司はただ大丈夫としか言わなかった。彼に抱きしめられながら壁に掛けられているカレンダーの二月という数字を眺めていると頭が痛くなってくる。さっき飲んだウォッカのせいだろうか。目の前がぐるぐると回って私は修司の腕の中でゆっくりと意識を失っていった。ごめんなさい、そう呟いたけど彼には聞こえただろうか。私からあなたにしてあげれることはもう離婚だけ。ただそれだけだ。
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