恋できない女

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恋できない女

服部社長は、次の日になっても、気分がスッキリせず,悩み続けていた。「これでは,全く仕事にならない!」と憂いながら,数時間過ごしたが,自分の心境を自分で何とか出来ないというのが焦ったくて,午後から行動に出ることを決意した。 雄二は、久しぶりに社長室に呼び出された。最近,社長の気に障るようなことは何もしていないはずなのに,何だろう?と少しソワソワし出した。服部社長の部下に対する態度や冷淡な性格にはだいぶ慣れて来たとはいえ,高飛車に叱られたり,注意されたりするのは,やっぱり気持ちのいいものではない。雄二は、コテンパンに叱られる覚悟で,構えて,社長室のドアにノックした。 すると,服部社長は、いつもとは少し違う表情をして,机に向かっていた。雄二の顔を見るとすぐに,無言で椅子を出した。雄二が座っても,しばらく沈黙が続いた。 少ししてから,服部社長は、ようやくこう切り出した。 「山田さんと同僚以外の関係を持つことは,公私混同になるから,遠慮していただきたいと注意したのを覚えていますか?」 雄二は、社長の切り出し方を聞いて,憤りを感じた。付き合ってもいないのに,告白されてもはっきりと断ったのに,どうして,また香織のことを言われなければならないのだろう。納得がいかなかった。そもそも,プライベートで何をしようと、自分の勝手で,社長には関係ない。今でも,強くそう思っている。 「山田さんは、恋人ではありませんし,付き合っていません。そして,たとえそういう関係だったとしても、社長には何の関係もありません。プライベートのことについてまで,どうして尋問を受けなければならないですか?」 雄二が真っ赤な顔で言った。 「そうじゃなくて…。今日,岡田さんを呼んだのは,注意するためではなくて…相談したいことがあるからです。」 服部社長は、見たことがないような,複雑な表情で説明した。 雄二は,社長が自分に相談があると聞いて,また驚いた。雄二がこれまで見て来た限り,服部社長は、他人に相談をして,物事を決めるタイプではない。いつだって,誰の意向をも確かめずに,独断で仕事を進める独裁的なやり方だ。それなのに,この自分に,一体何が相談したいというのだろう。 「岡田さんに,「公私混同になるような関係を作らないように。」と注意しておきながら,私が,知らないうちに,そういう関係を作ってしまったようです。仕事に身が入らなくて,とても困っています。」 服部社長が心の奥の葛藤を顔に出して,言った。 雄二は、一瞬耳を疑った。服部社長が自分に,恋愛相談!?そのはずはない…。 「誰かを好きになったということですか?」 服部社長は、小さく頷いた。 「いつも,こういうことにならないように,部下と適切な距離を置いて,用心していたので,自分でも半信半疑ですが…そうみたいです。」 「…どうして,僕にこの話を?」 雄二は、服部社長の恋話に関心がないわけではないが,どう考えても,社長が自分にこの話をしようと思った理由が思い当たらない。いつも「不真面目」と貶し,忌み嫌っている自分に,どうして,この非常に個人的で,大事な話をしようと思ったのだろう。 服部社長は、雄二に質問されて,ハッとした。まだ一番肝心なことを言っていなかったのだ。 「…私は,20代半ばという若さでこの会社を立ち上げ,とても苦労し,自分の未熟さを度々思い知らされました。仕事を軌道に乗せようと,社長としての自分の存在を認めてもらおうと,いつも必死でした。だから,恋愛だの、結婚だの,同年代の多くの人が興味を抱くような話題を,私には,無縁で,浅はかなものに見えました。仕事を終えて,帰宅してから寝るまでの短い時間以外は,これまで仕事一色の人生を送りました。 でも,あなたが現れて,自分の20代,30代の仕事三昧の人生とは真逆の,愉快で楽しい過ごし方があることを見せつけられました。そして,あなたのその自由なところに惹かれていることを隠すために,あなたを軽蔑し,否定し,批判しまくりました。自分の気持ちを,自分も含めて,誰にも気づかれないように,徹底的にあなたを嫌いました。 でも,よく考えてみたら,違いました。あなたを叱ったのも,嫌ったのも,あなたのことが嫌いからではなく,あなたのことを好きになったと自分に認めるのが怖かったからだったと思います。」 雄二は、困惑や戸惑いを通り越して,信じられない気持ちで,服部社長の言葉を聞いた。あんなに容赦なく自分を非難し,叱責して来た社長が,実は,自分に惹かれていた。好意を抱いていた。これは,思いがけないという言葉では言い表せないくらい,意外で,ショッキングなことである。 しかし,自分も,弘樹たちや香織にしょっちゅう愚痴りながらも,社長に惹かれ,密かに好意としか表現できないような気持ちを抱いて来たのは,否定できない事実だ。そう考えると,服部社長と自分は、ずっと考えて来たような正反対の共通点のない人間ではなく,いわゆる,似たもの同士なのかもしれないと思った。服部社長は、いつも周りに見せているより、心がずっと素直で,自分は、逆に,いつも周りに見せているほど、心が素直ではない。 気がついたら,雄二は、涙が滲み、頬を伝い始めた。 「大丈夫ですか?」 服部社長が心配そうに,何も言わずに,泣き出した雄二を見て、訊いた。 「すみません…嬉しいだけです。僕も,ずっと社長のことが好きでしたから…社長は、僕のことが嫌いだと思っていましたから…だから,ショックで,つい…。」 雄二が気を取り直し,言った。 「そうでしたか!?…両思いだったんですね…それは,何だか,嬉しいです。 両思いでも,結果的に,交際とか出来ませんけどね…。」 服部社長が可愛い女の子のように照れ臭く笑いながら,言った。 「え?」 雄二が聞き返した。 「ん?」 服部社長には,雄二が驚いている理由がわからないようだった。 「さっき,何とおっしゃいました?」 雄二が尋ねた。 「両思いで,嬉しいですと。」 服部社長が答えた。 「じゃなくて…。」 雄二が追求した。 「交際とか出来ませんと。」 服部社長が自分の言ったことを何げなく繰り返した。 雄二は、涙を拭いて,社長の顔を真っ直ぐに見つめた。 「交際とか出来ないというのは,どういうことですか?」 「え?…それは,いつも言っているように,公私混同になるからです。仕事に支障が出るようなことは、絶対に許しません。」 服部社長が当たり前のことをわざわざ説明させられているかのように,面倒臭そうに,自分の考えを説明した。 「何ですか,それ!?なら,最初から告白なんかしなければよかったんじゃないですか!?」 雄二が頭にきて,言った。 「いいえ,言わないままだと,さっきも話したように,仕事に身が入らなくて困るので,言って気持ちをスッキリさせたかったです。これで,言いたいことが言えたから,開き直って,前みたいに,仕事に集中出来ます。」 服部社長が満更でもない顔で,淡々と説明した。 「なんて身勝手な!それは,告白されたこっちの身にもなってみてくださいよ!虫が良すぎますよ,そんな!」 雄二が怒りを抑えられなくて,怒鳴り始めた。 すると,服部社長は,戸惑いを隠せずに,困惑した顔で雄二を見た。 「どうして,そんなに怒るんですか?」 「もういい!もう放っといてくれ!」 雄二が頭を冷やそうと,社長室を出て,自分の席に戻った。 しかし,席に座っても,落ち着かなくて、怒りがおさまらなくて,耐えられずに,自分の机に突っ伏してしまった。 香織が気づくと,すぐに心配になり,声をかけた。 「雄二君,大丈夫!?」 「大丈夫じゃないです…疲れました。」 雄二がうつ伏せのまま,顔を上げずに,呟いた。 数日後,雄二が復活し,気晴らしに,久しぶりに落語会に行くことにした。プロの落語家の落語を聴いていたら,社長のことなど,悩みや疲れは吹っ飛ぶはずだ。そう思った。 ところが,服部社長も,同じことを考えながら,同じ落語会に向かっていた。 会場で,ばったり会うと,雄二も,服部社長も,最初気まずそうに,黙り込んだ。 ようやく沈黙を破ったのは,雄二の方だった。 「あの…今は,仕事中ではないので,別に,一緒に落語を聴いても,公私混同にはならないと思いますが,ダメですか?」 服部社長は、一瞬迷ってから,小さく微笑んで,答えた。 「…そうかもしれないですね。」 「なら…一緒に座りませんか?」 雄二が誘った。 服部社長は、小さく頷いた。 並んで,会場の中へ移動していく二人の後ろ姿を,たまたま通りかかった沙智が見て,笑った。
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