元カレ

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 会社を後にして近くの定食屋さんに入る。 「すまない、女性をエスコートするのに慣れていなくてね、ここでもいいかな?」  再会したとき、チラっと左手を確認したけれど指輪は無く今ではしていない人も多いけれど、おそらく結婚はしていないだろう。  今も人懐っこい笑顔で定食屋さんの暖簾を手でおさえて私を待っていた。 「もちろん、美味しければなんでもOKよ」 「そう言ってくれると助かるよ」  ガラガラと店内に入ると、美味しそうな香りが私の胃袋を刺激してきた。  一気にお腹が鳴りそうになるのを堪えて席に着くと、彼はメニューも見ないで注文を伝えている。  私もチラっと確認し、本日のオススメを選ぶことにした。 「随分となれているのね」 「そりゃ、ずっと独り身だからね、このお店にはお世話になっていて今ではメニューも全部覚えているよ」  お水が運ばれてきて、私は鞄からウエットティッシュを取り出すと手を拭き始める。  漆田くんは疲れているのか、ふぅっと小さなため息をついて目を下に向けてしまう。  お互い無言の時間が過ぎていき、食事が運ばれてきたタイミングで会話は再開された。 「こういうの聞くのは失礼だって知っているけど、聞いていい?」 「ん? あぁ、別にいいけど、私も独身よ」  彼の視線が私の薬指に向いたのを確認して先手を打ってみる。 「そうなの? そりゃ世間の見る目がないんだな」  つい先日、会社の部下にも同じことを言われた気がするが、そう思ってくれるならとっくに彼氏がいても良かったのでは? 今までの仕事漬けの日々がフィードバックしてきてしまい、きっと付き合っても両方上手にこなせる自信は私には無かった。  美味しそうにミックスフライ定食を食べながら会話は進んでいく、私が頼んだ品は竜田揚げがたっぷりと汁に浸かった料理で、周りに添えられているキャベツの千切りがひたひたと美味しそうになっている。   「前にも似たようなこと言われたけど、彼氏すらいないから当分無理ね」 「そっか、それ聞いてなんか安心した……」  ん? それってどういう意味?   今まで疲れていた感じの顔から笑顔に戻ると、箸を進めていく。  それ以降はお互い仕事についての話がメインになり、恋愛や結婚云々の話題はでなかったが、どこか引っ掛かりを覚えた。  でも、これだけは言えて段々と私の彼に対する壁が薄くなっていくのがわかった。 「相変わらずね」 「? なになに? 何が相変わらずなんだ?」 「そのまんまよ」  思わず私は笑ってしまう。  付き合っていたころもそうだけど、彼には不思議な力がある。  最初はどんなに警戒しても、接していくうちに距離が知らないうちに近くなっていくのだ。   「うわ、なんだか俺馬鹿にされている?」  首を横に振り、最後の一口を食べるとお水を飲んで「ごちそうさま」と告げた。  きっちりと割り勘で払い終え、外に出ると暑さが一気に襲ってくる。 「それじゃ、本日はありがとうございました」 「いえいえ、こちらこそ、今後もよろしく」  私はそのまま帰ろうとしたが、漆田くんが近寄ってきてポケットからスマートフォンを取り出している。 「んっと、仕事で何かあったら直接連絡してもいいかな?」  私はどうしようか迷ったが、今までも仕事関係の人とは何度も電話番号のやりとりをしていたので、問題ないだろう。  それに、彼も言ったようにあくまで仕事なのだから、相手がたまたま元付き合っていた人という点を除けばビジネスパートナーである。 「えぇ、もちろん」  それを聞いてニッコリと微笑む、その笑顔は私の記憶そのままだった。  ちょっと老けたきもするが、それは私も同じで同じ年を重ねているのだから当たり前と言えば当然なのだけど。  そして、その日は別れたが彼はこちらにあんな風に言ってきたのに、連絡先を聞いてこなかった。 「ずっと残しておいてくれたのね」  私の番号は名刺には記載していない。  彼の番号は電話帳からは消えていないので、私は問題ないけれど、彼もどうやら同じのようだ。 「ただ、私が番号を変えていたらどうするのかしら?」  電話をかけて繋がらなかったときの焦った表情が手に取るようにわかり、面白くなってしまう。  でも、かけてくるとは限らないはずなのに、何かを期待しているのだろうか? いや、それはない。もしかすると、数か月後に追加の発注をいただけるかもしれない。  その時に少しだけのやり取りをするためだ。 「さて、帰りましょう」    私は自分の会社へと戻っていく、好きな音楽を聴きながら朝来たときよりも軽い足取りに、契約書が入った鞄が少しだけ軽くなったように思えた。  戻ると、営業部の部長さんは喜んでくれ周りの人たちも同じように喜んでいた。 「よかったぁ、これで今月の予算達成できるかも」 「おいおい、情けないこというなよ」 「やっぱり神薙さんには営業に戻ってもらわないと」  などなど、好き勝手言っているが、私は適当に返事をかえしつつ自分の企画部へと戻っていく。  そこでは、私がいなくともしっかりと仕事をこなしてくれていた。 「お帰りなさい! お仕事全部終わっていますよ」 「凄いじゃない、ありがとう」  えっへんと胸を張る手毬さん、何もすることが無くなった私は他の人の進捗状況なども確認しつつ、雑務をこなしていく。
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